ナチ党とは? わかりやすく解説

国民社会主義ドイツ労働者党

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国民社会主義ドイツ労働者党(こくみんしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、ドイツ語: Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei  発音[ヘルプ/ファイル])は、かつて存在したドイツの政党公式の略称は、NSDAP[1]。別称は、ナチナチ党ナチスナチス党




「国民社会主義ドイツ労働者党」の続きの解説一覧

ナチ党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 18:16 UTC 版)

マックス・アマン」の記事における「ナチ党」の解説

1921年10月、ナチ党に入党した党員番号ヒトラーヘルマン・エッサーに次ぐ3番であったその後1923年までナチ党機関紙フェルキッシャー・ベオバハター』の商業担当務めた1922年には出版全国指導者就任、党出版会社フランツ・エーア出版社社長となったミュンヘン一揆の際にはヒトラーと共に逮捕・投獄されたが、アマンは4か月半で釈放された。釈放以降もナチ党の出版全国指導者として務めた

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ナチ党

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1932年7月ドイツ国会選挙」の記事における「ナチ党」の解説

国会解散されたことで選挙戦始まったが、密約相手パーペン内閣表立って批判するわけにはいかなかったナチ党としては新し選挙戦術を考えねばならなかった。同党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルス考え出した方法は、この選挙ヴァイマル共和政歴史への審判とすることだった。それについてゲッベルスは「この国会選挙ではパーペン内閣政策ではなく1918年11月犯罪責任問い、さらにその時から今日まで現体制存続させ、今世最大歴史的崩壊責任を負わねばならない政府政党行動について審判下されるであろう」と述べた。しかし選挙戦途中からナチ党は首相抱き込み作戦中止しパーペンからの反論無視してパーペンヴァイマール体制一味」と批判するようになった。 しかし、そもそもナチ党が唱える反共主義反議会主義思想パーペン政府何ら異なるところがなく、右翼有権者の間ではなぜナチ党がパーペン挑戦しているのか理解できない人が多かったという。ゲッベルスはこの弱点カバーするため、詳細論争避け派手な宣伝戦による大胆かつ単純な論争心がけた。数多く大衆集会開き選挙映画レコード投入行い7月15日から7月30日にかけては飛行機活用してヒトラー50都市をめぐる精力的な遊説行った

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ナチ党

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ヴァルテラント帝国大管区」の記事における「ナチ党」の解説

「国家」領域としての帝国大管区」は、ナチ党の「ヴァルテラント大管区(略称:ヴァルテガウ)と一致している。当初帝国大管区ポーゼン」と呼ばれた国家区画にも後から名称が付けられた。 大管区指導部ポーゼン置かれ大管区指導者1939年10月21日から、その直後帝国総督任命されアルトゥール・グライザーであったヴァルテラント大管区Gau Wartheland)は、国家区画に従ってナチ党の「管区」に区画され、その長は管区指導者(Kreisleiter)であったドイツ人人口少なかったため、ナチ党のいくつかの管区複数の郡にまたがっていた。

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ナチ党

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1933年3月ドイツ国会選挙」の記事における「ナチ党」の解説

ナチ党の選挙戦党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルス指揮を執った。政権就いたナチ党は今や国家組織国庫使って選挙戦展開できるようになっていた。ゲッベルス今回選挙野党だった頃の選挙とは条件まるで違うことを認識し2月3日日記次のように書いている。「我々は国家組織動員できるようになったので運動は容易である。新聞ラジオ意のままである。我々は政治宣伝傑作創るつもりだ。金は有り余っている」。 当時ドイツではラジオ局政府の監督にあったため、野党の頃のヒトラーの声が電波流されたことは一度もなかったが、この選挙からラジオはナチ党の有力な宣伝機関となった。ただ集会でのヒトラー演説ラジオそのまま流すと興奮しすぎで場違い感があり、ヒトラーもそれについて「私はラジオ受けが良くないようだ」と嘆いていた。ゲッベルスラジオ担当者とともにヒトラーの声を研究して様々な方法編集して声質柔らかさ深み加えたり、場所によって明瞭決然と響くよう調整した。 また全国向け・管区向けの遊説隊の編成特別選挙集会、目引くポスター突撃隊パレード機関紙号外、党旗や横断幕での「シンボル操作」、飛行機使っての何百万ビラ撒きスピーカー付き宣伝カーなど、これまでの選挙培った手法総動員した。ナチ党の選挙スローガンこれまで通りボルシェヴィズムと闘え」と「国民パンと職を」の2つだった。 2月4日にはヒトラーシュライヒャー内閣下で準備されていた集会新聞制限し政党への寄付禁止するドイツ民族保護のための大統領令」をヒンデンブルク大統領発令させ、野党行動の自由を奪った2月20日にはゲーリング国会内の議長執務室に元ライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハト博士仲介経済界要人招集し政治資金パーティードイツ語版)を催した。このパーティーにはシャハトのほか、グスタフ・クルップ・フォン・ボーレン、合同製鋼ドイツ語版)のアルベルト・フェーグラー(ドイツ語版)、IGファルベンのゲオルク・フォン・シュニッツラー(ドイツ語版)などそうそうたる顔ぶれ出席したゲーリングは「いままさにスタートした選挙戦では最大成果上げねばならない政治闘争の場にいない分野方々少なくとも選挙必要な財政的犠牲ぐらい負担するのは当然であろう」と献金求めた。また一部文書によれば、この時ゲーリングは「3月5日選挙今後10年間で最後となるはずだし、先のことを言えば今後100年間で最後となるかもしれないことを皆さん知ったなら、それくらい出血大したことと思わないであろう」と述べたという。シャハトが「さあ皆さん献金を」というと各社選挙献金名簿金額書き込み、その総額300ライヒスマルクにも達したという。 2月27日国会議事堂放火事件後には事実上戒厳令である「国民及び国家保護のための大統領令」をヒンデンブルク大統領に出させて共産党社民党への弾圧措置強化した

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ナチ党

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強制的同一化」の記事における「ナチ党」の解説

ナチ党は政党新設禁止法で「国内唯一の政党」と規定された。12月1日、「党と国家統一保障するための法律」が成立した。この法律でナチ党は「ドイツ国思想のトレーガー(運搬者)となり、国家不可分に結ばれる」ことが定められた。選挙後ヒトラー国会で民族政府のみならず政府支配する党にも「ja」(賛意)を与えた。」として、一党支配体制宣言した一方で党内には不満がくすぶっていた。特に党内最大組織である突撃隊幹部であるエルンスト・レームらは突撃隊国軍化を求めており、体制変革も不十分と感じていた。このためゲーリングヒムラーらは突撃隊粛清計画し突撃隊反乱の噂を振りまいた。ヒトラー粛清決意し1934年6月30日突撃隊幹部などの反体制派殺害された。これが「長いナイフの夜」と呼ばれる事件である。

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ナチ党

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フランツ・フォン・エップ」の記事における「ナチ党」の解説

1927年バイエルン人民党入党したが、1928年5月1日には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。エップはナチ党の集会参加しヴェルサイユ条約破棄ドイツ再軍備反ユダヤ主義共感示し入党したことに誇り感じようになった。エップは元将軍として国軍ブルジョワ階層との繋ぎ役としての役割期待されていた。 1928年ドイツ国会選挙ではナチ党の有力候補としてバイエルンから出馬し国会議員に当選。ナチ党は12議席獲得し、エップはナチ党の国防政策スポークスマンとして国会で活動した。そのため、エップの発言国防政策に関する議題のみとなっている。また、同年にナチ党国防政策全国指導者任命され、後にドイツの植民地取り戻すために組織されドイツ植民地協会植民政策全国指導者兼務した。1932年にはジュネーブ海軍軍縮会議英語版)に委員一人として派遣された。同年9月には突撃隊最高指導部配属され独立志向の強いレーム突撃隊幹部制御する役目担った

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ナチ党

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アントン・ドレクスラー」の記事における「ナチ党」の解説

党名改称後、党内ではヒトラー頭角現し1921年に入るとヒトラー勢力盤石なものとなっていた。これに危機感覚えたドレクスラーは、6月ヒトラーベルリンに出かけている間に無断で他の右翼政党との共闘合併協議し始めたドレクスラー独断知ったヒトラー7月11日離党宣言した党幹部は党の顔であるヒトラー離党が党消滅に繋がることを危惧し引き留め躍起となった3日後、ヒトラーは党への復帰条件として自分独裁与えるように書面要求党幹部がこの要求認めたため、ヒトラー復党した。7月25日ミュンヘン警察ヒトラー危険人物であると密告したが、取り合ってもらえなかった。7月29日、554票中553票を得てヒトラー新党首に選出されドレクスラー名誉党首祭り上げられ、党での実権失った1923年11月ミュンヘン一揆の際、自宅にいたドレクスラー呼び出されたが、ヒトラー計画聞く恐れて参加しなかったが、一揆失敗後に逮捕された。この事件によりナチ党が一時解散強いられたとき、ドレクスラーは党を離れて民族ブロック」に参加し1924年から1928年にかけてにバイエルン州議会議員務めたこの間1925年には民族社会主義人民同盟設立している。同年ナチ党が再建されたがドレクスラー加わらず復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になってからであった1934年には党創設者としてヒトラーから1923年11月9日記念メダル授与されたが、以後政治権力与えられず、彼の存在1937年まで党の宣伝のために利用された。ドレクスラー自身は、この勲章授与感激し以後熱烈なヒトラー支持者となったその後ミュンヘン隠棲し、第二次世界大戦中1942年同地死去した

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ナチ党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:31 UTC 版)

ナチス・ドイツ」の記事における「ナチ党」の解説

1933年7月6日までにナチ党以外の既存政党はすべて解散追い込まれヒトラーが「党が今や国家となったのだ」と言明する事態となった7月14日には政党新設禁止法公布され唯一の政党であるナチ党以外の政党設立存続禁止された。12月1日には「ナチズム革命勝利結果国家社会主義ドイツ労働者党ドイツ国思想担い手となり、党は国家不可分に結ばれる」ことが法律定められた(党と国家統一保障するための法律)。この法律では党は公法人であるとされたが、1935年4月19日の「統一法施行令」では「共同体」(Gemeinschaft)と定義し直された。しかしこれらの条文1942年12月12日の「ナチス党法的地位に関する指導者命令」によって削除された。党と国家の役割定義する試みはしばしば行われたが、結局のところは両者の境界曖昧なままであった。この党の状態をマルティン・ボルマンは「ナチス党地位法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」としている。 一方でナチ党の世界観において、党は国家と同様、指導者の下にあって民族指導実現する一つの手段・装置であるとされたが、党は国家より優位に立つ存在であった。ラインハルト・ヘーン(de)は党は国家より先に立つ第一次存在であるとし、「国家存在理由は、官庁官僚装置使って、党により与えられ大きな方針実現し、党の負担軽減する存在であると説明している。

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ナチ党

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「第三帝国」記事における「ナチ党」の解説

詳細は「ナチズム」を参照 「Drittes Reich第三帝国)」は、神聖ローマ帝国第一帝国ビスマルク帝政ドイツ第二帝国とし、その後を継ぐドイツ民族による3度目帝国として国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツナチス・ドイツ)で用いられた。ただし、当時の公式のドイツ国名は「Deutsches Reichドイツ国)」、もしくはGroßdeutsches Reich大ドイツ国)」であった。なお、ライヒ (Reich) とは、ドイツ語で「一支配者全ての地域 (Land) を治めている全国 (Reich)」と規定され、「ライヒ帝国」ではない。 正確な時期不明であるが、ナチ党の数ある用語の一つとして「第三帝国」用いられた。例としては全権委任法成立翌日発行された『フェルキッシャー・ベオバハター』は「ドイツはめざめた。偉大な仕事始まった。『第三ライヒ第三帝国)』の日が到来したのだ。」と書いており、ナチ党の側がいわゆるナチス・ドイツ時代を指す用語として用いられた。 しかし、この呼称海外反ナチ運動風刺用いられるようになったため、1939年6月13日総統アドルフ・ヒトラー「第三帝国」の用語を使用しないよう告げた7月10日には、ヨーゼフ・ゲッベルス国民啓蒙・宣伝省において宣伝文句として使用するのを控えるよう通達している 。しかし、この措置徹底されず、ゲッベルス以降自身演説などで引用した他、ヒトラー自身も、1941年12月17日から18日にかけての談話で「今やドイツという時、それは『第三帝国以外の何ものでもない」と語っている。

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