「第三帝国」とは? わかりやすく解説

「第三帝国」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)

ベルリンの歴史」の記事における「「第三帝国」」の解説

共産主義者社会主義者牙城であったベルリンナチズム中心になったことはなく、ナチズムもっぱらバイエルンにその起源をたどることができる。ベルリンヴァイマル共和国ナチス・ドイツ両方首都となった1933年2月27日ドイツ国会議事堂放火事件が起こる。ナチ党はこの事件利用して基本権停止させたことにより、事実上ヴァイマル憲法効力失った1933年ごろのベルリンにはドイツ系ユダヤ人3分の1にあたる、およそ16万人ユダヤ人居住しており、ベルリン市人口の4%を占めていた。その3分の1は東ヨーロッパから移り住んできた貧困層で、おもにアレクサンダー広場付近のショイネン地区ドイツ語版)で暮らしていたが、ユダヤ系住民ナチス政権から迫害受けていた。1933年3月にはユダヤ系医師ベルリン大学医学部付属病院シャリテから退職余儀なくされ、4月にはいるとナチス政府は「ユダヤ人ボイコット運動」を唱えユダヤ系以外の市民ユダヤ人経営する商店での購入妨害した1936年ベルリン第11回夏季オリンピック大会開催されるナチス1933年以降ベルリンオリンピック開催されることをプロパガンダとして利用した国際社会演出した「普通の国」に傷をつけないように、従来までのユダヤ人対す差別迫害政策緩和したりした。たとえば一時的に Für Juden verboten (ユダヤ人禁止)の看板撤去するといったことが行われた。1937年ベルリン700周年祝賀行事あわせてナチスのプロパガンダ集会開催された。 このころになるとナチス世界首都ゲルマニア計画打ち出しベルリン拡張着手した建築家アルベルト・シュペーア計画では、ベルリン巨大な通り造り、これに沿ってモニュメントとなる建築配置するのだった。この計画のほとんどは実現されなかったが、その名残りとなる構造物は現在もなおベルリン市内で目にすることができる。 1938年11月9日から10日にかけて、いわゆる水晶の夜事件起こりシナゴーグに火が放たれ、またユダヤ系商店居住地域破壊されたり、ユダヤ人拘束されたりした。1939年ごろのベルリンにはおよそ75,000人のユダヤ人住んでいたが、1941年10月18日、グルーネヴァルト駅(ドイツ語版)から、ユダヤ人移送する一番列車リッツマンシュタットに向け出発したウッチ・ゲットー参照)。これは後に計63本編成されることになる。またホロコースト始まった5万人のユダヤ人拘束され強制収容所送られ、その多く殺害された。ホロコーストに関して歴史上重要な出来事として、1942年ヴァンゼー湖畔で開かれたヴァンゼー会議挙げられる。ここでは国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ主導してホロコースト実行決定された。このようなことが起こってベルリンでは1,200人を超えるユダヤ人身を隠して生き残ることができた。 ベルリンから北西30キロ離れたオラーニエンブルク近くにはザクセンハウゼン強制収容所があり、おもに政治犯ソヴィエト赤軍捕虜収容され1万人がそこで死亡したザクセンハウゼン強制収容所には付近に工場併設されており、そこで収容されていた人々には強制労働課された。このような収容所ベルリンにも数多く存在していた。 1939年第二次世界大戦開戦するが、当初ベルリン戦争影響をほとんど受けていなかった。1940年にはベルリンイギリスによる初の空襲なされるが、爆撃対象わずかにはずれていたため初期被害比較小さなものであった。しかしアメリカ参戦するベルリン被害範囲拡大していった。イギリス夜間ベルリンに向かう一方でアメリカ昼間ベルリン上空飛行するようになったことで、爆撃はほぼ24時間中行われるようになった1945年3月、1,250機の爆撃機ベルリン攻撃し、およそ2万人のベルリン市民が死亡150万人住居失ったベルリン中心部は完全に破壊され一方で郊外部被害少なかった。こういったベルリン空襲で、平均するベルリン市5分の1そのうち中心部50%占める)が破壊された。 第二次世界大戦におけるベルリン市内の建物への被害被害状況%損失度合全壊 11.6 100 深刻な破壊 8.3 75 復旧可能な破壊 9.7 30 軽微な破壊居住可能) 69.4 10 交通機関もまた大きな被害受けており、運行状態も戦争の終結まで壊滅的なものであったベルリン投下され爆弾45トンにも上った1945年4月21日ソヴィエト赤軍ポーランド部隊ベルリン侵攻したベルリン市街戦)。1945年4月30日ヒトラー総統官邸地下壕自殺し5月2日ベルリン防衛軍降伏しベルリン陥落したベルリン市民の女性多くソ連兵強姦されたと言われている。ある医師推定では、ベルリンレイプされ10万女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半自殺だった。 戦争終結後ベルリンには瓦礫と灰が積もっていた。市街地の28.5平方キロメートル廃墟となり、60件の住居全壊10万件が損傷し百貨店も2軒に1軒は崩壊していた。1939年開戦から数えると100万人もの市民戦死逮捕、または避難によってベルリンから失われた

※この「「第三帝国」」の解説は、「ベルリンの歴史」の解説の一部です。
「「第三帝国」」を含む「ベルリンの歴史」の記事については、「ベルリンの歴史」の概要を参照ください。

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