「第三の道」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/29 17:10 UTC 版)
「オーストリア・マルクス主義」の記事における「「第三の道」へ」の解説
その後、オーストリア・マルクス主義派は「改良主義とボリシェヴィズムの間に」立ち、社会主義運動の両陣営への分裂を批判・調停する「第三の道」を標榜する立場を打ち出し、1926年の社会民主党リンツ綱領によって定式化した。この頃オーストリア・マルクス主義派は思想集団としてはほぼ解体していたが、オーストリア社会民主党が国際社会主義運動の中で急速に影響力を失うなか、左右の意見の対立を抱えながらも党の統一を守ることができたのはこのような調停的立場の成果とする評価もある。オーストリア・ファシズムの台頭によりオーストリア・マルクス主義の理論家たちは、1934年の反ファシズム蜂起の失敗(2月内乱)後、亡命あるいは沈黙の道を歩むことを余儀なくされたが、第二次世界大戦後に至ってレンナーの大統領就任にみられるように復権を遂げた。
※この「「第三の道」へ」の解説は、「オーストリア・マルクス主義」の解説の一部です。
「「第三の道」へ」を含む「オーストリア・マルクス主義」の記事については、「オーストリア・マルクス主義」の概要を参照ください。
- 「第三の道」へのページへのリンク