「第三章」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/07 09:37 UTC 版)
第三章では、石河がカテゴリーIとカテゴリーIIの論説だけを撰んで『全集』に収録したのかどうか検証している。まず、1923年(大正12年)6月に慶應義塾評議員会が石河に福澤諭吉の伝記執筆を依頼することになった。そして、1923年(大正12年)9 月に慶應義塾大学図書館内に福澤先生伝記編纂所が設置された。石河は当時の福澤の弟子たちに取材をおこない、さらに昭和版『続福澤全集』に収録される書簡集を集めたり、大正版『福澤全集』と昭和版『続福澤全集』に収録される時事新報論説を選択したりする作業も同時に進めた。その2年後、1925年(大正14年)12月から大正版『福澤全集』が刊行された。この大正版『福澤全集』には、石河が自分で執筆したと記している以下の14編の時事新報論説が含まれている。 「朝鮮談判の落着、大石公使の挙動」(1893年(明治26年)5月23日) 「日本外交の進歩」(1894年(明治27年)1月16日、17日) 「支那政府の長州征伐」(1894年(明治27年)7月22日) 「道徳の進歩」(1895年(明治28年)7月7日) 「道徳の標準」(1895年(明治28年)7月9日) 「忠義の意味」(1894年(明治27年)7月10日) 「日米の交際」(1897年(明治30年)5月11日) 「対外前途の困難」(1897年(明治30年)6月25日) 「文明先輩の功労忘る可らず」(1897年(明治30年)10月27日) 「本願寺の処分」(1897年(明治30年)12月5日) 「血脈と法脈との分離」(1897年(明治30年)12月7日) 「法運万歳の道なきに非ず」(1897年(明治30年)12月4日) 「官有鉄道論」(1898年(明治31年)8月21日) 「今回の恩賜に付き福沢先生の所感」(1900年(明治33年)5月16日) これらの14編の論説は、伝記の中で言及されたり伝記の記載を補強するために使われたりしているので、平山は14編の論説がカテゴリーIIのものではなく、カテゴリーIIIまたはカテゴリーIVの論説ではないかと推測している。 1894年(明治27年)から1895年(明治28年)の日清戦争中においては、福澤は毎日のように時事新報社に出社して、自から戦意高揚論説を執筆していたというのが今までの定説である。これは石河が『福澤諭吉伝』第3 巻713頁で描き出した福澤像であり、その福澤像を証拠付けるのが大正版・昭和版正続『全集』の「時事論集」なのである。正続『全集』の「時事論集」をそのまま引き継いだ現行版『福澤諭吉全集』には、1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて284編の論説が収録されている。その中で、日清戦争および朝鮮問題に関連する論説は大正版『全集』に収録されているものは以下の10編である。(括弧内は井田進也と平山による判定結果を示す) 「支那政府の長州征伐」(1894年(明治27年)7月22日)[石河執筆](伝記に明記) 「大いに軍費を醸出せん」(1894年(明治27年)7月29日)[石河執筆](平山判定) 「軍資の義捐を祈る」(1894年(明治27年)8月14日)[石河執筆](井田判定) 「資金義捐に就て」(1894年(明治27年)8月14日)[福澤執筆](署名入り) 「日本臣民の覚悟」(1894年(明治27年)8月28日、29日)[石河執筆](井田判定) 「外戦始末論」(1895年(明治28年)2月1日〜7日)[石河執筆](平山判定) 「兇漢小山六之助」(1895年(明治28年)3月26日)[石河執筆](平山判定) 「私の小義侠に酔ふて公の大事を誤る勿れ」(1895年(明治28年)3月28日)[福澤執筆](平山判定) 「唯堪忍す可し」(1895年(明治28年)6月1日)[福澤執筆](岡部喜作宛書簡(1895年(明治28年)6月1日)で証明) 「朝鮮問題」(1895年(明治28年)6月14日)[石河執筆](平山判定) 井田と平山による判定結果によると、カテゴリーIの福澤真筆は3編に過ぎない。これら3編の中で、「資金義捐に就て」は社説ではなく署名入りの寄稿であり、残り2編も戦意高揚を意図したものではないため、平山は福澤が日清戦争を煽ったという上記の定説は正しくないと説明している。 さらに、『全集』未収録の『修業立志編』に収録されている論説42編について解説している。この42編の論説の中で9編が『全集』未収録となっている。これについて石河は、大正版『全集』第1巻の端書で「尚お慶應義塾編纂の『修業立志論(ママ)』に載て居る文章は、本集『時事論集』中の各篇に分載せるを以て、別に一冊として收録せず。」と述べている。しかし、9編の論説が未収録であり、しかもこの中で平山判定によると2編は福澤真筆のカテゴリーIであるため、石河は誠実な選択をおこなわなかったと結論している。
※この「「第三章」」の解説は、「福沢諭吉の真実」の解説の一部です。
「「第三章」」を含む「福沢諭吉の真実」の記事については、「福沢諭吉の真実」の概要を参照ください。
- 「第三章」のページへのリンク