「第二の国歌」へ
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「美しく青きドナウ」の記事における「「第二の国歌」へ」の解説
1867年4月、パリ万博が開催されると、シュトラウス2世は弟のヨーゼフとエドゥアルトにウィーンを任せて単身パリに向かった。そして万博会場においてしばらく遠ざかっていた『美しく青きドナウ』を演奏すると、今度は期待以上に高い評価を受けた。5月28日、パリのオーストリア大使館でのイベントでは、臨席したフランス皇帝ナポレオン3世からも賞賛を受けたという。ジュール・バルビエ(フランス語版)によってフランス語の新しい歌詞が贈られ、やがて人々はこの歌詞を口ずさむほどになった。このパリでの大成功の後、8月上旬にシュトラウス2世はロンドンに渡ったが、こちらでもパリと同様に絶賛された。また、こうした評判がウィーンにも届くとウィーンでも演奏されるようになり、たちまち世界各地で演奏されるようになった。 各国ごとに大量の楽譜が印刷され、そのいずれもが好調な売り上げを記録した。当時シュトラウス一家の楽譜出版を一手に担っていたC.A.シュピーナ社は、一万部印刷可能な銅板を『美しく青きドナウ』のために100枚も必要としたという。これはラジオ誕生以前の楽譜の売れ行きとしては最高の数字であった。シュトラウス2世は演奏旅行の際には必ずこの曲を披露するようになった。1872年6月17日にシュトラウス2世を招いてアメリカ合衆国ボストンで催された「世界平和記念国際音楽祭(英語版)」では、2万人もの歌手、1000人のオーケストラ、さらに1000人の軍楽隊によって、10万人の聴衆の前でこのワルツも演奏された。 日増しに高まる名声を受けて、初演から7年後(1874年か)、エドゥアルト・ハンスリックはこう論評している。 「 皇帝と王室を祝ったパパ・ハイドンの国歌と並んで、わが国土と国民を歌ったもう一つの国歌、シュトラウスの『美しき青きドナウ(ママ)』ができたわけだ。 」 このハンスリックの論評は、歌詞の内容をまったく考慮していない、曲名とメロディーだけを評価したものであったが、やがて「国歌」にふさわしい歌詞が伴うようになる。1890年、フランツ・フォン・ゲルネルト(ドイツ語版)による現行の歌詞に改訂されたのである。ゲルネルトもやはりヴァイルと同様にウィーン男声合唱協会の会員で、彼は作曲や詩作をたしなむ裁判所の判事であった。新たに付けられた歌詞は、かつてヴァイルが付けたものとはまったく異なる荘厳な抒情詩であった。 (ドイツ語)Donau so blau,so schön und blaudurch Tal und Auwogst ruhig du hin,dich grüßt unser Wien,dein silbernes Bandknüpft Land an Land,und fröhliche Herzen schlagenan deinem schönen Strand. (日本語訳)いとも青きドナウよ、なんと美しく青いことか谷や野をつらぬき、おだやかに流れゆき、われらがウィーンに挨拶を送る、汝が銀色の帯は、国と国とを結びつけ、わが胸は歓喜に高鳴りて、汝が美しき岸辺にたたずむ。 改訂新版が初めて歌われたのは1890年7月2日で、この後広く「ハプスブルク帝国第二の国歌」と呼ばれるようになった。ウィーンを流れるドナウ川をヨーロッパの国々に繋がる一本の帯に見立てた、国土を謳う立派な歌詞が付けられたことで、このワルツはハプスブルク帝国およびその帝都ウィーンを象徴する曲に生まれ変わったのである。合唱団はいずれもこの新しい歌詞のほうを好み、ヴァイルによる歌詞は歌われなくなった。現行の歌詞は、ウィーン少年合唱団による歌唱でも有名である。 オーストリアでは帝政が廃止された後、ハイドンによる皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』から別の国歌に変更され、さらに紆余曲折を経て1946年には(かなり疑わしいが)モーツァルトの作品とされる『山岳の国、大河の国』に変更された。その一方で『美しく青きドナウ』は、オーストリア=ハンガリー帝国時代と変わらず「第二の国歌」としての立ち位置を維持した。1945年4月にオーストリアはナチス・ドイツ支配から解放されたが、独立後の国歌が未定だったことから、オーストリア議会はとりあえず正式な国歌が決まるまでの代わりとして『美しく青きドナウ』を推奨した。 戦後20年ほどが経過した1964年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とともにテアトロ・コロンへ客演旅行に出たカール・ベームは、最後の演奏会で「ここで我々は感謝のためにさらにオーストリア国歌を演奏いたします」と述べて、国歌と聞いて反射的に起立した聴衆の前で『美しく青きドナウ』を演奏した。ベームはこの曲のことをのちに出版した回想録のなかでも「三拍子のオーストリア国歌」と表現している。現在のオーストリアでも、このワルツは依然として「第二の国歌」と呼ばれ続けている。
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