高まる名声
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「エドワード・エルガー」の記事における「高まる名声」の解説
弦楽セレナード Op.20 第1楽章 弦楽セレナードより第1楽章。演奏:United States Army Band弦楽アンサンブル この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。 1890年代、エルガーは主にミッドランズ(英語版)で催される大きな合唱祭のための作品により、次第に作曲家としての名声を確立していった。ロングフェローに触発されて書かれた『黒騎士』(1892年)、『オラフ王の伝説からの情景』(1896年)、他にも『生命の光』(1896年)、『カラクタクス』(1898年)は皆そこそこの成功を収め、彼はノヴェロ社(Novello & Co)との長期契約を獲得することになる。『弦楽セレナード』(1892年)や『3つのバイエルン舞曲』(1897年)といった作品もこの時期に生まれたものである。すっかり地元の重要人物となっていたエルガーは、サミュエル・コールリッジ=テイラーに対して若者のキャリア確立の助けになるからと、スリー・クワイアズ・フェスティバルへの演奏会用楽曲提供を勧めている。エルガーは著名な評論家の目に留まるが、彼らの論評は熱狂的というよりむしろ礼儀正しいものだった。彼は音楽祭の作曲家としては求められる存在だったものの、自分は経済的に食いつなげているだけであり認められてはいないと感じていた。1898年、彼は「音楽のことで非常に心を病んでいる」と述べており、規模の大きな作品で成功する道を見出せることを願っていた。友人のアウグスト・イェーガーは彼の気持ちを高めようとしている。「毎日苛まれる憂鬱(中略)は君の希望、君の必要性を消し去ったりはしない。それはある種の神意が君に与えた創造の力が訓練されようとしているということだ。君が世界に認められる時はやってくる。」 1899年、その予言は突如現実のものとなる。42歳になったエルガーが作曲した『エニグマ変奏曲』が、ロンドンでドイツの指揮者ハンス・リヒターの指揮により初演されたのである。エルガー自身の言葉に次のようにある。「私は創作主題に基づく変奏曲のスケッチを行った。作曲にあたって私は友人のニックネームを変奏に付していったのだが、これは楽しいものだった(中略)つまり私は『人』の雰囲気を表すように変奏を作曲したのだ(中略)そして私は - 彼らがもし作曲するような馬鹿者だったとしたら - こう書くだろうと思ったように書いたのだ。」彼はこの作品を「描かれている友人たちへ」献呈した。おそらく最もよく知られる変奏はイェーガーを描いた「ニムロッド」だろう。純粋に音楽的な観点からエルガーはアーサー・サリヴァンとヒューバート・パリーを描いた変奏を省略した。彼は変奏に彼らのスタイルを盛り込もうとしたが叶わなかった。この大規模な作品は独自性、魅力、精巧さの点から広く称賛を受けることになり、同世代の中でも抜きん出たイギリスの作曲家としてエルガーの評価を確立した。 正式な表題は「創作主題による変奏曲」であるが、曲の冒頭6小節に現れる「エニグマ(謎)」という言葉がタイトルとして広く知られるようになった。謎とは「創作主題」による14の変奏が変奏される一方で、全体に通底する別の主題があるということである。主題はエルガー自身によれば「全曲を貫き覆う」が一度も音にされることはなく、また彼はこれを特定しなかった。後の世のコメンテーターらの考えるところでは、エルガーは今日ではイングランドらしい特徴を備えた作曲家だとみなされているが、彼の管弦楽作品、中でも特にこの曲は当時でいえばリヒャルト・シュトラウスの楽曲に典型的なヨーロッパの中心の伝統と通ずるところを多く備えている。『エニグマ変奏曲』はドイツとイタリアでも好評を博し、現在でも世界中で演奏会の定番であり続けている。
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