作曲家としての名声
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「海 (ドビュッシー)」の記事における「作曲家としての名声」の解説
1902年に初演されたオペラ『ペレアスとメリザンド』の成功は、フランス国内におけるドビュッシーの知名度を飛躍的に高めた。「ペレアス」は初演後もたびたび再演され、新聞社は「ペレアストル」「ドビュッシー主義者」と称されるドビュッシーの支持者たちの、演奏会場における振る舞いを記事に取り上げ、ドビュッシーを「新しい宗教の首領」に例えた。ドビュッシー自身はこのような事態に困惑したが、彼の存在は既に社会の注目の的となっており、新聞各社はドビュッシーの動向を常に監視し、作曲の進捗状況に関する未確認情報までもが記事にされた。 「ドビュッシー主義者」たちは「ペレアス」の延長線上にある新作が発表されることを望んでいたが、ドビュッシー自身には「二匹目の泥鰌」を狙うつもりは毛頭なかった。エドガー・アラン・ポーの短編に基づくオペラ『鐘楼の悪魔』(未完)や『海』の構想を練っていた頃、ドビュッシーは アンドレ・メサジェ に宛てた1903年9月12日付の手紙において次のように述べている。 親切にも私がけっして《ペレアス》から抜け出られないだろうと期待している人々について言えば、彼らは注意深く目をふさいでいます。ですから、そんなことになれば、もっとも遺憾なことはまさに「繰り返す」ことだと私は考えていますから、すぐさま自室でパイナップル栽培でも始めるだろうということが彼らにはまったく分からないのです。 — ドビュッシー、フランソワ・ルシュール 笠羽映子訳『ドビュッシー書簡集』音楽之友社、1999年11月20日、ISBN 4-276-13164-2、183~184頁より引用
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