作曲家としての活動
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「トーマス・ラルヒャー」の記事における「作曲家としての活動」の解説
数年来、ラルヒャーは作曲を主としており、オーストリアの現代音楽の主要な作曲家の一人と見なされている。彼の初期の作品(“Naunz”, “Cold Farmer” and “Kraken”を含む)は主にピアノと室内オーケストラ向けだったが、近年は並行して室内楽(弦楽四重奏曲第2番、第3番、My Illness is the Medicine I Need)やオーケストラやアンサンブルのための曲、独奏とオーケストラのための曲(“Bose Zellen、“Die Nacht der Verlorenen”など)に広がっている。 ラルヒャーは国際的に有名なソロイストとアンサンブル(ロンドン・シンフォニエッタ、アルテミス弦楽四重奏団、ハインリヒ・シフ、マティアス・ゲルネ、ティル・フェルナー、ウィーン放送交響楽団、サンフランシスコ交響楽団)のために数多くの作品を書いている。またルツェルン音楽祭、ロンドンのサウスバンク・センター、ウィグモア・ホール、アムステルダムの土曜日のマチネから作品を委嘱されている。 作風はオクターブやメロディーが素直に出ており、主題はソロあるいは第1バイオリンで提示されるほど簡明である。Proms2016で発表した「交響曲第二番」もA音上の短三和音を執拗に誇示する一方で、ストラヴィンスキー風の楔を単純なリズムで刺し続けた後にメロディーが回帰しており、前衛音楽というよりは映画音楽のスタイルといって過言ではない。ただECMと契約してからオーケストラからの人気や人望は厚く、大編成での仕事をつぎつぎとこなしている。「ピアノとオーケストラのための協奏曲(2020-2021)」もオクターブとメロディーに支えられ、緩と急の楽章の対比は古典音楽のように明確である。
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作曲家としての活動
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「スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ」の記事における「作曲家としての活動」の解説
戦後の1947年にフランス大使館の奨学金を受けて2年間パリに滞在、ナディア・ブーランジェやアルチュール・オネゲルに作曲を師事した。パリ滞在中に、「ゾディアク」という前衛グループを設立した。世代的にはルトスワフスキとペンデレツキの中間のポーランド楽派における繋ぎ役とされる。 20世紀を代表する作曲家ピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらとの交流がある。しかし、最も強い影響を受けたのはブルックナーといい、自作の「管弦楽のための協奏曲」の第2楽章には「アントン・ブルックナーの昇天」というタイトルを付けている。日本では読売日本交響楽団との演奏会で自作を度々取り上げているほか、ミネソタ管弦楽団やザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団と自作を録音している。 スクロヴァチェフスキの主な作品は以下の通り。 序曲<1947年>(シマノフスキ・コンクール優勝作)(1947年) ミュージック・アット・ナイト(1949年、1977年改訂) イングリッシュ・ホルン協奏曲(トーマス・ステイシー委嘱作品)(1969年) リチェルカーレ・ノットゥルノ(ケネディ・センター・フリートハイム賞受賞作)(1977年) クラリネット協奏曲(ミネソタ作曲家フォーラム委嘱作品)(1980年) 管弦楽のための協奏曲(ミネソタ管弦楽団委嘱作品)(1985年、1998年改訂) ヴァイオリン協奏曲(フィラデルフィア管弦楽団委嘱作品)(1985年) 室内協奏曲(セントポール室内管弦楽団委嘱作品)(1993年) パッサカリア・イマジナリア(ミネソタ管弦楽団委嘱作品)(1995年) コンチェルト・ニコロ(ゲイリー・グラフマン委嘱作品)(2002年) 交響曲(2003年) Music for Winds(読売日本交響楽団、ミネソタ管弦楽団、ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団他全9団体共同委嘱作品)(2009年)
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