作曲家として頭角を現す
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「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の記事における「作曲家として頭角を現す」の解説
ドイツで研鑽をつむ合間にケンブリッジに戻ったスタンフォードは、CMUSでの指揮者の仕事を再開する。音楽部は彼の代理のイートン・ファニング の下で良い状態になってきており、演奏困難な新たな音楽にも取り組めるようになってきていた。1876年にブラームスの「ドイツ・レクイエム」の英国初演を行った。1877年にブラームスの「交響曲第1番」の英国初演を行った際には、CMUSは国中の注目の的となったのである。 同じ頃、スタンフォードは作曲家としても名前が知られ始めていた。彼は多作家であったが、後年この年代の作品を引っ込めてしまう。その中にはヴァイオリン協奏曲も含まれており、ロッドメルによればそれは「平凡な主題要素」のために上出来とは言えなかったのだという。1875年に、スタンフォードはアレクサンドラ・パレスで開かれた英国の作曲家による交響曲の大会で2等賞を獲得するが、初演まではその後2年を待たねばならなかった 。同じ年に、彼はCUMSの演奏で行われた自作のオラトリオ「復活 The Resurrection」の初演を指揮した。スタンフォードはアルフレッド・テニスンの依頼を受けて戯曲「メアリ女王 Queen Mary」への付随音楽を作曲し、それは1876年の4月にロンドンのライシーアム劇場 で演奏された。 スタンフォードは1878年に父の反対を押し切り、ジェーン・アンナ・マリア・ウェットン(Jane Anna Maria Wetton)と結婚した。彼女はジェニーとして知られており、彼とは彼女がライプツィヒで勉強をしている時に知り合った。二人は1883年に娘のジェラルディン・メアリー(Geraldine Mary)を、1885年に息子のガイ・デズモンド(Guy Desmond)を授かっている。 1878年と1879年にはスタンフォードは、友人のウィリアム・バークレイ・スクワイヤー(William Barclay Squire)の台本による初のオペラ「神秘の預言者 The Veiled Prophet」に取り組んでいた。これはトマス・ムーア の詩に基づく作品で、純潔の尼僧と神秘の預言者が登場し、話は毒を盛り突き刺す場面で最高潮になる。スタンフォードはオペラ興行主のカール・ローザにこのオペラの公演を打診したが、断られてドイツでの公演を考えた方がいいと言われてしまう。「もし海外公演が成功したら、ここでの公演も成功する可能性が高まる。」というのである。ローザはさらにサリヴァンの喜劇が大人気となっていることに言及し、こう付け加えた。「もし作品がPinafore(訳注:サリヴァンの喜劇)の形式だったら、事情は変わってくるのだが。」スタンフォード自身もサリヴァンのCox and Box(訳注:サリヴァンの喜劇)を大いに楽しんではいたが、「神秘の預言者」は劇的要素とロマンスに溢れた真剣な内容にするつもりでいた。スタンフォードはドイツに滞在している間に多くの有用なコネを築いており、彼の友人であるエルンスト・フランク(Ernst Frank)がこの作品を1881年にハノーファーの王立歌劇場(Königliches Schauspiel)で取り上げてくれた。ミュージカル・タイムズ誌への論評として、スタンフォードの友人のJ.A.フラー・メイトランドはこう記した。「スタンフォード氏の楽器法は・・・多かれ少なかれシューマンのそれに依っている。一方、彼の劇的要素の扱いは巨匠らの中ではマイアベーアのものに類似している。」他の論評はまちまちであり、結局彼のオペラがイングランド初演を迎えるのは1893年のことであった。にもかかわらず、スタンフォードは彼の生涯を通じて、オペラでの成功を追求し続けた。一生オペラに対して情熱を燃やし続けた彼と、一度はオペラを作曲しようとしたものの、あとにそれを放棄してしまった同時代のパリーとでは、違いが際立っている。 1880年代までには、スタンフォードは英国音楽界を代表する人物になりつつあった。彼の主なライバルと目されるのは、サリヴァン、フレデリック・コーウェン、パリー、アレグザンダー・マッケンジー、アーサー・トーマスのみであった。サリヴァンは大規模な楽劇ではなく喜劇を作っていたため、意識の高い音楽家のサークルからは当時疑問視されていた。コーウェンは作曲家というより指揮者であると見なされていた、また、他の三人は有望視されてはいたが、まだスタンフォードほどに目立った活躍はしていなかった。スタンフォードはパリーに対して特に知名度が上がるよう協力しており、ケンブリッジ公演のアリストパネスの「鳥」への付随音楽や交響曲(交響曲第2番「ケンブリッジ」)を委嘱するなどした。スタンフォードはケンブリッジにおいて、ヨアヒム、ハンス・リヒター、アルフレッド・ピアッティ、エドワード・ダンロイターなどの客演を取り付け、自分自身とともにCUMSの名声の向上に貢献し続けた。音楽部はコーウェン、パリー、マッケンジー、ゴーリング・トーマスや他の作曲家の作品を初演し、さらに注目を浴びるようになっていった。スタンフォードはまた、トリニティでのオルガニストとしての技量で人びとに印象を与え、音楽的水準を引き上げ、さらに彼の伝記作家であるジェーミー・ディブル(Jermy Dibble)が「特に注目に値する教会音楽」と呼んだ礼拝音楽変ロ長調(1879年)、讃美歌「主は私の羊飼い The Lord is my shepherd」(1886年)、モテット「神に従う人の魂はJustorum animae」(1888年)などを作曲した。 1880年代前半、スタンフォードは2つのオペラ、「サヴォナローラ Savonarola」と「カンタベリーの清教徒たち The Canterbury Pilgrims」で作家のギルバート・ア・ベケット と協力関係にあった。前者は1884年4月のハンブルク初演において好意的な評を受けたものの、同年7月のロイヤル・オペラ・ハウスでの公演では散々に酷評された。パリーは私的にこう述べている。「そのオペラは全然練られておらず、公演向けとしてはひどい出来の構成だった。音楽は清涼でよく作られていたものの、印象が薄く劇的な情感に乏しかった。」最も辛辣な公開批評を加えたのはザ・シアター誌(The Theatre)で、その評によると「『サヴォナローラ』の台本は陳腐かつ大袈裟で、劇性という観点からは弱かった。しかし、劇に付された音楽はそれにも増してやかましくうんざりするようなものだった。そのような『サヴォナローラ』を鑑賞したが、私には(スタンフォードの)方向性はこのようなものだとしか思えず、それならば早く劇場を辞して大聖堂での仕事に専念してくれた方が、彼の名声のためでもあるのにと思わずにはいられなかった。」「カンタベリーの清教徒たち」は「サヴォナローラ」のロイヤル・オペラ・ハウス公演の3か月前、1884年4月にロンドンで初演を迎えた。これは「サヴォナローラ」よりは好評を受けたものの、公演評はスタンフォードがマイスタージンガーから受けている影響を指摘し、愛の音楽に情感が不足していることに不満を述べている。ジョージ・グローヴはパリーに宛てた書簡で、批評家に同意しつつ「チャールズの音楽に唯一欠けているものは感情だ。愛情は聴いていて微塵たりとも感じられなかった。(中略)それにもっと音色が豊かであった方がいい。メロディーは決して悪いものではないのだから。」と述べている。1896年にある批評家が記したところによると、そのオペラの「台本は故アルフレッド・セリアー になら、よく合ったことだろう。彼なら、それを使って軽いイギリスオペラを作っただろうからだ。しかしスタンフォード氏はあの台本で、拡大された理論を開示する道を選んだ。我々はそれが彼の持ち前であると了解しているが、その音楽を聴いた我々には、彼がマイスタージンガーを下敷きとしたのだろうという印象が残ってしまった。この組み合わせは、幸福な効果をもたらさなかった。」
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