作曲家として頭角を現すとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 作曲家として頭角を現すの意味・解説 

作曲家として頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 05:12 UTC 版)

チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の記事における「作曲家として頭角を現す」の解説

ドイツ研鑽をつむ合間ケンブリッジ戻ったスタンフォードは、CMUSでの指揮者仕事再開する音楽部彼の代理イートン・ファニング の下で良い状態になってきており、演奏困難な新たな音楽にも取り組めるようになってきていた。1876年ブラームスの「ドイツ・レクイエム」の英国初演行った1877年ブラームスの「交響曲第1番」の英国初演行った際には、CMUSは国中注目の的となったのである。 同じ頃、スタンフォード作曲家としても名前が知られ始めていた。彼は多作であったが、後年この年代の作品引っ込めてしまう。その中にはヴァイオリン協奏曲含まれており、ロッドメルによればそれは「平凡な主題要素」のために上出来とは言えなかったのだという。1875年に、スタンフォードアレクサンドラ・パレス開かれた英国作曲家による交響曲大会で2等賞を獲得するが、初演まではその後2年を待たねばならなかった 。同じ年に、彼はCUMSの演奏行われた自作オラトリオ復活 The Resurrection」の初演指揮したスタンフォードアルフレッド・テニスン依頼受けて戯曲メアリ女王 Queen Mary」への付随音楽作曲し、それは1876年4月ロンドンライシーアム劇場演奏された。 スタンフォード1878年に父の反対押し切り、ジェーン・アンナ・マリア・ウェットン(Jane Anna Maria Wetton)と結婚した。彼女はジェニーとして知られており、彼とは彼女がライプツィヒ勉強をしている時に知り合った二人1883年に娘のジェラルディン・メアリー(Geraldine Mary)を、1885年息子のガイ・デズモンド(Guy Desmond)を授かっている。 1878年1879年にはスタンフォードは、友人のウィリアム・バークレイ・スクワイヤー(William Barclay Squire)の台本による初のオペラ神秘預言者 The Veiled Prophet」に取り組んでいた。これはトマス・ムーア の詩に基づく作品で、純潔尼僧神秘預言者登場し、話は毒を盛り突き刺す場面で最高潮になる。スタンフォードオペラ興行主カール・ローザにこのオペラの公演打診したが、断られドイツでの公演考えた方がいいと言われてしまう。「もし海外公演成功したら、ここでの公演成功する可能性が高まる。」というのであるローザはさらにサリヴァン喜劇大人気となっていることに言及し、こう付け加えた。「もし作品Pinafore訳注サリヴァン喜劇)の形式だったら事情変わってくるのだが。」スタンフォード自身サリヴァンCox and Box訳注サリヴァン喜劇)を大い楽しんではいたが、「神秘預言者」は劇的要素ロマンス溢れた真剣な内容にするつもりでいた。スタンフォードドイツ滞在している間に多く有用なコネ築いており、彼の友人であるエルンスト・フランク(Ernst Frank)がこの作品1881年ハノーファー王立歌劇場(Königliches Schauspiel)で取り上げてくれた。ミュージカル・タイムズ誌への論評として、スタンフォード友人J.A.フラー・メイトランドはこう記した。「スタンフォード氏の楽器法は・・・多かれ少なかれシューマンのそれに依っている。一方彼の劇的要素扱い巨匠らの中ではマイアベーアのものに類似している。」他の論評まちまちであり、結局彼のオペライングランド初演迎えるのは1893年のことであった。にもかかわらずスタンフォード彼の生涯通じてオペラでの成功追求し続けた一生オペラに対して情熱燃やし続けた彼と、一度オペラ作曲しようとしたものの、あとにそれを放棄してしまった同時代パリーとでは、違い際立っている。 1880年代までには、スタンフォード英国音楽界代表する人物になりつつあった。彼の主なライバル目されるのは、サリヴァンフレデリック・コーウェンパリーアレグザンダー・マッケンジー、アーサー・トーマスのみであったサリヴァン大規模な楽劇ではなく喜劇作っていたため、意識の高い音楽家サークルからは当時疑問視されていた。コーウェンは作曲家というより指揮者であると見なされていた、また、他の三人は有望視されてはいたが、まだスタンフォードほどに目立った活躍はしていなかった。スタンフォードパリーに対して特に知名度上がるよう協力しており、ケンブリッジ公演のアリストパネスの「」への付随音楽交響曲交響曲第2番ケンブリッジ」)を委嘱するなどした。スタンフォードケンブリッジにおいて、ヨアヒムハンス・リヒター、アルフレッド・ピアッティ、エドワード・ダンロイターなどの客演取り付け自分自身とともにCUMSの名声の向上に貢献し続けた音楽部はコーウェン、パリーマッケンジー、ゴーリング・トーマスや他の作曲家作品初演し、さらに注目を浴びるようになっていった。スタンフォードまた、トリニティでのオルガニストとしての技量人びと印象与え音楽的水準引き上げ、さらに彼の伝記作家であるジェーミー・ディブル(Jermy Dibble)が「特に注目に値する教会音楽」と呼んだ礼拝音楽変ロ長調1879年)、讃美歌「主は私の羊飼い The Lord is my shepherd」(1886年)、モテット「神に従う人の魂はJustorum animae」(1888年)などを作曲した1880年代前半スタンフォード2つオペラ、「サヴォナローラ Savonarola」と「カンタベリー清教徒たち The Canterbury Pilgrims」で作家のギルバート・ア・ベケット と協力関係にあった前者1884年4月ハンブルク初演において好意的な評を受けたものの、同年7月ロイヤル・オペラ・ハウスでの公演では散々に酷評された。パリー私的にこう述べている。「そのオペラは全然練られておらず、公演向けとしてはひどい出来構成だった。音楽清涼でよく作られいたものの、印象薄く劇的な情感乏しかった。」最も辛辣な公開批評加えたのはザ・シアター誌(The Theatre)で、その評によると「『サヴォナローラ』の台本陳腐かつ大袈裟で、劇性という観点からは弱かった。しかし、劇に付され音楽はそれにも増してやかましうんざりするようなものだったそのようなサヴォナローラ』を鑑賞したが、私には(スタンフォードの)方向性このようなものだとしか思えず、それならば早く劇場辞して大聖堂での仕事専念してくれた方が、彼の名声のためでもあるのにと思わずにはいられなかった。」「カンタベリー清教徒たち」は「サヴォナローラ」のロイヤル・オペラ・ハウス公演の3か月前、1884年4月ロンドン初演迎えた。これは「サヴォナローラ」よりは好評受けたものの、公演評スタンフォードマイスタージンガーから受けている影響指摘し、愛の音楽情感不足していることに不満を述べている。ジョージ・グローヴパリー宛てた書簡で、批評家同意しつつ「チャールズ音楽唯一欠けているものは感情だ。愛情聴いていて微塵たりとも感じられなかった。(中略)それにもっと音色が豊かであった方がいい。メロディー決して悪いものではないのだから。」と述べている。1896年にある批評家記したところによると、そのオペラの「台本は故アルフレッド・セリアー になら、よく合ったことだろう。彼なら、それを使って軽いイギリスオペラを作っただろうからだ。しかしスタンフォード氏はあの台本で、拡大され理論開示する道を選んだ。我々はそれが彼の持ち前であると了解しているが、その音楽聴いた我々には、彼がマイスタージンガー下敷きとしたのだろうという印象残ってしまった。この組み合わせは、幸福な効果をもたらさなかった。」

※この「作曲家として頭角を現す」の解説は、「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の解説の一部です。
「作曲家として頭角を現す」を含む「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の記事については、「チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「作曲家として頭角を現す」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「作曲家として頭角を現す」の関連用語

作曲家として頭角を現すのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



作曲家として頭角を現すのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS