けさ【×袈×裟】
袈裟
袈裟
袈裟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 15:29 UTC 版)
「絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「袈裟」の解説
図像の袈裟は、灌頂の記録上は国宝「犍陀穀糸袈裟」(けんだこくしけさ)である。 ただ、実際に描かれている袈裟は、条の部分に花文が連続して描かれていることから、実物の「犍陀穀糸袈裟」とは別物である。図像の袈裟は九条袈裟となっており、緑青で条を塗って、朱色の菊花を並べたものになっている。ただし、黒田日出男は、七条袈裟に見えると主張し、後七日御修法で大阿闍梨が使う袈裟もまた七条袈裟であることを指摘している。内田啓一は、本作品は吉野で描かれたので、東寺にある実物を参考にすることができず、そのため別の袈裟を模写した可能性もあるのではないかと指摘している。 「犍陀穀糸袈裟」は、唐都長安の青龍寺の密教僧である恵果が、弟子の空海(弘法大師)に授けたと伝承される袈裟である。『弘法大師請来目録』『東宝記』『養和二年後七日御修法記』など多くの記録に現れ、東寺では稀代の重宝と見なされていた。歴代の天皇によって修復作業が行われており、『東宝記』「第二仏宝中」によれば、最初の修復は仁治2年(1241年)に四条天皇の命で行われ、二度目は後醍醐の父の後宇多院が徳治3年(1308年)に仁和寺の禅助から伝法灌頂を受ける際に、この袈裟を修理させて灌頂に臨んでいる。 ところが、嘉暦4年(1329年)6月25日、盗人が東寺に入り、この袈裟を含め多数の寺宝を奪った(『阿刀文書』『東宝記』)。賊は裏絹だけ引き剥がすと、袈裟は寺の周辺で投げ捨て、それが7月1日に発見された(『東宝記』)。そこで、後醍醐天皇の指示により三度目の修復作業が行われた(『東宝記』)。 後醍醐天皇は、文観から伝法灌頂を受けた際には「犍陀穀糸袈裟」を使用していないが、修理の翌年に行われた瑜祇灌頂(図像の場面)ではこれを身に着けた。内田は、父帝と同じ袈裟をまとう姿に、後醍醐の瑜祇灌頂への意気込みが感じられるとし、通例は東寺長者しか着用を許されない重宝を、親子二代で着用できた時の感慨は深かったのではないかと推測している。 なお、絵を制作した文観自身は灌頂を授ける側なので図像には描かれていないが、こちらも東寺に相承される伝説の袈裟を着用している。
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袈裟
「袈裟」の例文・使い方・用例・文例
- 彼が大袈裟に肩を竦める
- 彼の話はそうとう大袈裟だ。
- そんなこと真に受けちゃだめだよ。彼は大袈裟に言う傾向があるから。
- その扇動家は些細なことを大袈裟に表現する傾向がある。
- あなたは問題を大袈裟に考えている。
- 彼の話はいつも大袈裟で, 言っていることはどれほどの事もない.
- 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い.
- 坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い、坊主が可愛いけりゃ袈裟まで可愛い
- 坊主が可愛いけりゃ袈裟まで可愛い
- 坊主が憎くけりゃ袈裟まで憎い、坊主が可愛いけりゃ袈裟まで可愛い
- 袈裟がけに斬る
- 大袈裟な前触れであった
- 大袈裟に言う
- 大袈裟な話
- あの人の話はちと大袈裟だ
- そう大袈裟に吹聴しなくともよい
- あの人の約束は大袈裟だ
- 米国は農工業とも大袈裟だ
袈裟と同じ種類の言葉
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