カンツォーネ[canzone]
カンツォーネ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 19:44 UTC 版)
カンツォーネ (伊: Canzone) は、イタリア語では単に「歌」を指す単語である。小規模のカンツォーネのことをカンツォネッタ (Canzonetta) と呼ぶ。ただし日本で「カンツォーネ」といった場合、以下のものを指すことが多い。
- 主にクラシック音楽の歌手によって歌われる、1880年代末から1920年代に書かれ普及した[1][2]イタリアの大衆歌曲、特にナポリのもの(カンツォーネ・ナポレターナ、Canzone napoletana)。「オー・ソレ・ミオ」「フニクリ・フニクラ」などが知られる。
- 1960年代~1970年代に日本で流行したイタリアのポップスのこと。有名曲には、ボビー・ソロの『ほほにかかる涙』などがある。作曲家には、ジョバンニ・フスコ[3]、エンニオ・モリコーネ[4]らがいる。
- このほか、1.の「カンツォーネ・ナポレターナ」の隆盛よりも以前の18世紀から19世紀に流行したヴェネツィア歌謡としてのカンツォーネ(カンツォーネ・ヴェネツィアーナ、Canzone veneziana)には「ゴンドラのブロンド(La biondina in gondoleta)」「愛しのわが子」などがある。
主な楽曲
- フニクリ・フニクラ
- オー・ソレ・ミオ
- サンタ・ルチア
- 帰れソレントへ
- わすれな草 (it:Non ti scordar di me (brano musicale))
- サラセン人[5]
- アメリカかぶれ[5]
イタリアン・ポップスの曲
- あまい囁き - ミーナとアルベルト・ルーポ
- 雨 - ジリオラ・チンクェッティ
- ヴォラーレ - ドメニコ・モドゥーニョ
- ケ・サラ - リッキ・エ・ポーヴェリ
- サンライト・ツイスト - ジャンニ・モランディ
- 砂に消えた涙 - ミーナ
- 月影のナポリ - ミーナ
- 花のささやき - ウィルマ・ゴイク
- ほほにかかる涙 - ボビー・ソロ
- 夢みる想い - ジリオラ・チンクェッティ
主な日本人歌手
脚注
- ^ Frasca, Simona (2014). Italian birds of passage:the diaspora of Neapolitan musicians in New York. New York: Palgrave Macmillan. ISBN 9781137322418
- ^ Vitale, John L. (2016). “Exploring Canzone Napoletana and Southern Italian Migration Through Three Lenses”. California Italian Studies 6 (2) .
- ^ 「太陽はひとりぼっち」の音楽を担当
- ^ 「太陽の下の18歳」の音楽を担当
- ^ a b “「世界を虜にしたナポリ民謡(カンツォーネ・ナポレターネ)12曲 ①」”. accademia-italiana.jp. 2018年10月10日閲覧。
カンツォーネ
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「ジャンニ・フェッリオ」の記事における「カンツォーネ」の解説
日本では映画音楽で知られるが、実際にはカンツォーネの作曲家兼アレンジャーとしての活動に力を入れていた。1940年代からカンツォーネの編曲・指揮者として活躍したのちに作曲家に進出し、1958年にイタリアの人気歌手テディ・レーノの新曲として作曲した"Piccolissima serenata"というカンツォーネが大ヒットしたことで作曲家として頭角を現す。1962年には人気歌手ミーナ(ミーナ・マッツィーニ)に提供した"Improvvisamente"というカンツォーネがヒットし、以降はミーナからの絶大な信頼を得て、楽曲提供はもちろん編曲、録音やコンサートでのオーケストラ指揮において協力を続ける。また、テレビの音楽番組においてオーケストラ指揮者としてミーナと共演する機会も多く、ミーナが視聴者に対してフェッリオを紹介する場面もたびたび見られた。 中でも前述のように1972年にミーナに提供した美しいメロディの「あまい囁き」Parole parole は国際的な大ヒットを果たした。官能的な美しさのメロディをミーナが歌いながら、イタリアの名優アルベルト・ルーポが愛を囁く絶妙の演出が話題となり、翌年1973年にはフランスにおいてダリダとアラン・ドロンによって "Paroles... paroles...." としてフランス語でカバーされる。当時絶大な人気を誇っていたアラン・ドロンの知名度によって、ダリダとドロンによるフランス語版はミーナによるオリジナル版を凌ぐ大ヒットとなっている。 ミーナの他にも、アンナ・モッフォ、オルネラ・ヴァノーニ、カテリーナ・ヴァレンテ、ジョニー・ドレッリ、フレッド・ボングスト、マリーナ・モランといったイタリアの人気歌手に対して楽曲提供、アレンジ、オーケストラ指揮において協力した。また、アストル・ピアソラ、エリス・レジーナ、ルイス・ボンファ、トゥーツ・シールマンス、ジェリー・ルイス、ジェームス・テイラーがイタリア公演を行う際にもアレンジやオーケストラの指揮によって協力した。 1970年には「官能美の女王」と呼ばれて高い人気を得ながらその官能的な歌い方がスキャンダルとして保守勢力から政治的な圧力を受け続けた女性歌手ユーラ・デ・パルマのシスティーナ劇場リサイタルを後押しし、フェッリオによる楽曲提供・編曲・オーケストラ指揮によってこの公演は大成功を果たしている。また、この公演のライヴ録音は "Jula al Sistina" としてRCAイタリアからレコードが発売された。 1965年のユーロビジョン・ソング・コンテストでは音楽監督を担当。歌手の伴奏指揮者としても3曲の指揮を受け持ち、オーストリアから出場したウド・ユルゲンスが歌う「愛のことづけ」Sag ihr, ich lass sie grüßen、アイルランドから出場したバッチ・ムーアが歌う"Walking the Streets in the Rain" 、イタリアから出場したボビー・ソロが歌う「君に涙とほほえみを」Se piangi, se ridi のオーケストラ指揮を担当した。また、サンレモ音楽祭においてもアレンジャー兼歌手の伴奏指揮者として1959年、1962年、2007年に出場している。
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