1880年代
1880年代
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1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルク・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達することになる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。 まず、第一に挙げねばならないのは、1880年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム - トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク - バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク - クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。 次いで、オビ川・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべきことを述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカル湖までの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガ川の川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ川及びシルカ川の両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。 これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出。次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設することは決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクであることも決定された。 問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルクであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。
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1880年代
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「ブラジルにおけるコーヒー生産」の記事における「1880年代」の解説
1880年代から1世紀以上も続いたコーヒー生産を経て、ブラジルにおける奴隷制度は衰退し労働力供給は賃金労働に切り替わった。また、ブラジルボク、砂糖、金採掘などといったブラジルの他の輸出産業とは違い、コーヒー生産はブラジル全体の産業化に大きく寄与した。ブラジル南東部のサンパウロにはコーヒー生産に従事する多くの移民が流入し、人口は1850年代に約30,000人、1890年には約70,000人、1900年には約240,000人にもなった。1930年代には人口1,000,000人を超え、サンパウロはリオデジャネイロを抜きブラジル最大の都市となった。
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1880年代
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「ザ・ハウス・オブ・ザ・デッドシリーズにおける年表」の記事における「1880年代」の解説
1880年 ソーンハートたちの先祖が会を作る(ハウス・オブ・ザ・デッド 〜スカーレット・ドーン〜)。
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1880年代
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詳細は「1880年代」を参照 1880年ドイツのケルン大聖堂が完成(1248年 - )。 日本で国会期成同盟結成。 第二次アフガン戦争。 1881年明治十四年の政変。開拓使官有物払下げ事件、大隈重信の追放、国会開設の勅諭、 自由党結成、松方正義の大蔵卿就任(松方デフレ)。 ロンドン自然史博物館が開館する。 ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺される。ユダヤ人に対するロシア各地でのポグロム(英語版)が発生する。 ムハレム勅令により、オスマン債務管理局が設置される。 1882年日本銀行創立。立憲改進党の結成。岐阜事件。 ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟締結。 ロックフェラーのスタンダード石油がトラストを形成しアメリカ石油業界を独占する。 ウラービー革命にイギリスが介入。アレクサンドリアが砲撃され、エジプトはイギリスの保護国となる。 1883年鹿鳴館が設置される。 オリエント急行(パリ-イスタンブール)開通。 インドネシアのクラカタウが大噴火。 ニューヨークのブルックリン橋が完成する。 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』第一部刊行。 1884年清仏戦争(-1885年)。 群馬事件、加波山事件、秩父事件、自由党の解党。 ベルリン・コンゴ会議(-1885年)によりアフリカ分割の原則が定まる。 イギリスとドイツでのニューギニア島の分割が完了する 1885年日本で内閣制度発足、伊藤博文初代総理就任(12月)。 イギリス領インド帝国のボンベイで第1回インド国民会議が開催される。 ブルガリア公国が東ルメリ自治州を併合。 マフディーの反乱でハルツームのゴードンらが虐殺される。 コンゴ自由国が成立する。 1886年バイエルン国王ルートヴィヒ2世が廃位され怪死を遂げる。 フランスでブーランジェが陸相となる(ブーランジェ事件 - 1889年)。 イギリスでジョゼフ・チェンバレンが自由統一党を結成。 アメリカのニューヨークの自由の女神像の除幕式。 ジョージア州アトランタでコカコーラ発売。 ノルマントン号事件。 1887年フランス領インドシナの成立( - 1954年)。 独露再保障条約締結。地中海協定(英語版)締結。 ハワイ国王カラカウアが「銃剣憲法(英語版)(ベイオネット憲法)」に署名する。 1888年日本で枢密院設置、市町村制公布、明治宮殿の竣工。磐梯山噴火。 ロンドンで切り裂きジャック事件起こる。 雑誌『ナショナル ジオグラフィック』の刊行。 1889年大日本帝国憲法発布(2月11日)、市町村制施行。大隈重信遭難事件。 第4回パリ万国博覧会開催。エッフェル塔の完成。 パリにて第二インターナショナルが結成される( - 1914年)。 オーストリア皇太子ルドルフ謎の情死(マイヤーリンク事件)。 ブラジル皇帝ペドロ2世廃位、ブラジルは共和政となる。
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1880年代
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「年度別スポーツ記事一覧」の記事における「1880年代」の解説
1889年のスポーツ - 相撲会所を東京大角力協会と改称 1888年のスポーツ - イギリス・ローンテニス協会結成 1887年のスポーツ - 帝国大学で、正式に第1回陸上運動会開催 1886年のスポーツ - オーモンドが無敗でイギリスクラシック三冠を達成。国際ラグビーボード創立 1885年のスポーツ - アメリカ体育振興会設立 1884年のスポーツ - 梅ヶ谷藤太郎 (初代)が横綱に昇進 1883年のスポーツ - 鹿鳴館開館 1882年のスポーツ - 嘉納治五郎、東京下谷稲荷町の永昌寺に柔道場を開く 1881年のスポーツ - 国際体操連盟設立 1880年のスポーツ - 片腕を負傷したフレッド・アーチャーがベンドアでエプソムダービーを制す。イギリス・アマチュアボクシング協会設立。
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1880年代
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州都を移す論争があった後に地域を2つに分ける提案が広く流れた。1887年、アイダホ準州はその存在を無くす寸前までいったが、エドワード・A・スティーブンソン知事のお陰でグロバー・クリーブランド大統領はアイダホ準州を北のワシントン準州と南のネバダ州にわける法案に署名しなかった。 1889年、アイダホ大学が、当初計画された南部のイーグルロック(現在はアイダホフォールズ)ではなく、北部の町モスコーに創られることになった。このことは州都を失うことで北部アイダホ住民が感じていた嫌な気持ちを幾らかでも軽減することになった。 アイダホ準州は1890年7月3日、アメリカ合衆国39番目の州に昇格した。
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1880年代
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「アメリカ合衆国領土の変遷」の記事における「1880年代」の解説
1882年3月28日 ダコタ準州のうち、北緯43度線の南、ケヤパハ川とネブラスカ川の北がネブラスカ州に移管された。 1884年5月17日 アラスカ県は連邦政府と郡の直轄地だったが、アラスカ地区として指定され、地方政府が置かれた。 1889年11月2日 ダコタ準州が2分割され、合衆国第39番目の州ノースダコタ州、第40番目の州サウスダコタ州が加盟した。 1889年11月8日 モンタナ準州が合衆国第41番目の州、モンタナ州として加盟した。 1889年11月11日 ワシントン準州が合衆国第42番目の州、ワシントン州として加盟した。
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1880年代
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「日本における死刑囚の一覧 (-1969)」の記事における「1880年代」の解説
事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)秩父事件(田代栄助) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 政府に対する武装蜂起。1885年5月17日に死刑執行(52歳没)。 秩父事件(加藤織平) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 秩父事件(高岸善吉) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 秩父事件(坂本宗作) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯として死刑執行(32歳没)。 秩父事件(新井周三郎) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯として死刑執行(24歳没)。 秩父事件(菊池貫平) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。1886年に強盗教唆で逮捕されて収監されるが、大日本帝国憲法発布の大赦で免罪、別件で無期懲役。1905年に出獄、1914年死去。 秩父事件(井上伝蔵) 1885年2月19日 1884年10月31日-11月9日 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。北海道で変名で生活し、1918年に死去。 人力車夫殺害事件(赤井景韶) 1885年6月9日 1884年 高田事件で重禁錮9年の判決を受けて服役中に脱獄し、逃走中に人力車夫を殺害して逮捕された。1885年7月27日に死刑執行(27歳没)。 加波山事件(富松正安) 1886年8月12日 1884年9月23日 栃木県令三島通庸の暗殺未遂。1886年10月5日に死刑執行(38歳没)。 加波山事件(保多駒吉) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑執行(27歳没)。 加波山事件(琴田岩松) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑執行(25歳没)。 加波山事件(小針重雄) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑執行(23歳没)。 加波山事件(杉浦吉副) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑執行(43歳没)。 加波山事件(三浦文治) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑執行(31歳没)。 加波山事件(横山信六) 1886年8月12日 1884年9月23日 上記共犯で死刑判決を受けるが、執行前の1886年9月3日に肺病のため獄死(24歳没)。 「青森の亭主殺し」事件(小山内スミ) 1886年11月6日 1886年8月18日 12月に死刑執行。浮気相手(小野長之助)と共謀し、青森県陸奥国中津軽郡鬼沢村(現在の弘前市)で自分の夫を殺害した女性死刑囚。法に反して公開で斬首刑に処されたという。地元では数え歌が作られたり、『鬼沢新聞・枕の刃』という覗きメガネが作られた。 「青森の亭主殺し」事件(小野長之助) 1886年11月6日 1886年8月18日 12月に死刑執行。上記共犯。 「ピストル強盗」事件(清水定吉) 1887年8月 1882年 - 1886年 日本最初のピストル強盗。1887年9月7日に死刑執行。
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