1400年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/30 04:16 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
---|---|
世紀: | 14世紀 - 15世紀 - 16世紀 |
十年紀: | 1370年代 1380年代 1390年代 - 1400年代 - 1410年代 1420年代 1430年代 |
年: | 1400年 1401年 1402年 1403年 1404年 1405年 1406年 1407年 1408年 1409年 |
1400年代(せんよんひゃくねんだい)は、
- 西暦(ユリウス暦)1400年から1409年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。
- 西暦1400年から1499年までの100年間を指す。15世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。イタリア語では「クワトロチェント(Quattrocento)」と呼び、国際ゴシックから盛期ルネサンスの時代を指す。
できごと
1401年
- 足利義満、肥富某・僧祖阿らを明に派遣する。
- 土御門内裏の修繕が始まり、諸国に造内裏段銭を課する。
- 足利義満、李氏朝鮮に使いを派遣する。
- 李氏朝鮮の太宗が中国の明朝より朝鮮国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
1402年
- アンカラの戦いでティムールがオスマン帝国を破る。
- 明の燕王、建文帝を倒して第3代皇帝に即位(成祖永楽帝)。
- 足利義満が中国の明朝より日本国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。
- 北元,オルク・テムルが即位。国号「元」を使用せず韃靼を使う.
- スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王室のパラメスワラ王子がマラッカ王国を建国。
1403年
- 明が首都・北平を北京と改名。
1404年
1405年
- 明の成祖永楽帝、鄭和を南海遠征に派遣( - 1433年)。
1406年
1407年
1408年
- 足利義満死去。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、1400年代に関するカテゴリがあります。
1400年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:22 UTC 版)
詳細は「1400年代」を参照 1401年足利義満により土御門内裏(土御門東洞院殿)の修繕拡張が始まり、諸国に造内裏段銭を課する。 足利義満が肥富某・僧祖阿らを明に派遣する。足利義満が李氏朝鮮に使いを派遣する。 李氏朝鮮の太宗が中国の明より朝鮮国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。 ティムールのダマスカス占領・バグダード占領。ダマスカスとの和平交渉でティムールと歴史家イブン・ハルドゥーンが会見。 フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂青銅扉の作成競技でギベルティが優勝する。 セビリア大聖堂の建設始まる( - 1519年)。 1402年アンカラの戦いでティムールがオスマン帝国を破る。 明の燕王が建文帝を倒して第3代成祖永楽帝として即位。 足利義満が中国の明より日本国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。 スマトラ島のシュリーヴィジャヤ王室のパラメスワラ(英語版)王子がマラッカ王国を建国。 1403年明の永楽帝が北平を都に定め北京(順天府)と改称。 フランス軍に包囲され対立教皇ベネディクトゥス13世がアヴィニョンを退去。 1404年明の永楽帝が中山王武寧に冊封使を遣わす。 日明貿易(勘合貿易)始まる。 カスティーリャの外交官ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホがサマルカンドのティムールを訪問する。 1405年明への遠征途上のオトラルでティムールが病没。 明の成祖永楽帝が鄭和を南海遠征に派遣( - 1433年)。 1406年ベトナムの胡朝が崩壊し明へ下る。 紫禁城の建設始まる。 中山王武寧を倒した尚巴志が父の尚思紹を王位に就ける(第一尚氏王統の成立)。 1407年パリでオルレアン公ルイがブルゴーニュ公ジャン(無畏公)の配下によって暗殺される。 足利義満正室日野康子(後小松天皇准母)が准三宮となり、女院(北山院)となる。 朝鮮で太宗の仏教弾圧。 1408年「永楽大典」が成立する。 足利義満死去。朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られるが、幕府はこれを辞退。 1409年ピサ教会会議。
※この「1400年代」の解説は、「15世紀」の解説の一部です。
「1400年代」を含む「15世紀」の記事については、「15世紀」の概要を参照ください。
- 1400年代のページへのリンク