スマトラ‐とう〔‐タウ〕【スマトラ島】
読み方:すまとらとう
⇒スマトラ
スマトラ島
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スマトラ島(スマトラとう、インドネシア語: Pulau Sumatera、ジャワ語: سومترا)は、全域がインドネシア共和国、大スンダ列島に所属する世界で6番目に大きい島である。北部にはインドネシアで5番目に人口の多い都市メダンがある。マレー半島やカリマンタン島と同様に油田が存在し、特に中部のミナス油田はインドネシアで埋蔵量、産出量共に最大である。
- ^ “スマトラ島”. インドネシア進出支援. 2020年6月28日閲覧。
- ^ “外務省:インドネシア・アチェの和平合意について”. 外務省 (2005年8月15日). 2020年6月28日閲覧。
- ^ Gunung Raya
- ^ Badan Pusat Statistik, Jakarta, 2021.
- 1 スマトラ島とは
- 2 スマトラ島の概要
- 3 地理
- 4 交通
スマトラ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 08:46 UTC 版)
現在、スマトラ島には北部(メダン)・中部(パダン)・南部(パレンバン)の3箇所にそれぞれ独立した鉄道が存在していて、PT. Kereta Apiでは、北スマトラをDivre I、西スマトラ(中部)をDivre II、南スマトラをDivre IIIが、各々管轄している。スマトラ島での鉄道はすべて非電化で、その殆どが貨物輸送である。 Divre I メダンから南東へランタウ・ブラハット向かう266 kmの本線、その途中からのタンジュン・バライ支線21 km、シアンタール支線48km。メダンから北へ「バラワン港」への支線、アチェ方面へビンジャイへ20 km、かつてはここからアチェ鉄道(軌間750 mmのナローゲージ)が450 km先のバンダ・アチェまでつながっていたが1982年ごろまでに運行休止。再開計画もスマトラ島沖地震で一時凍結された。また2013年7月メダン市内からクアラナム国際空港へのアクセス鉄道「エアポート・リンク」が開通した。 Divre II パダンからパダンパルジャンを経由して鉱山の有るサワルントへの本線、一部区間には勾配対策ラックレール区間もある。またミナンカバウ国際空港の近くを通過するため空港連絡鉄道として活用できないか検討されている。 Divre III 南部のパレンバンを中心とした鉄道は、バレンバン市内のクルタパティ駅から西の山間部石炭鉱山の有るルブックリンガウ (305 km) へのルートと途中のプラブムリー駅(クルタパティから約80 km)からスマトラ島南端のランプン州の州都バンダルランプン市のタンジュン・カラン駅(クルタパティから389 km)へのルートが本線。石炭の輸送がメインでバレンバン・バンダルランプンから船積みされる。ほかバレンバンで生成された石油製品(燃料)の石炭鉱山やタンジュン・カランへ運搬される。 またバンダルランプン市のバカウニ港からスンダ海峡を渡る航路を介してジャワ島メラクへ、この航路には嘗て宇高連絡船として活躍した「阿波丸」が運行されている。港横のメラク駅から首都ジャカルタのタナアバン駅まで乗り継ぐ事ができるが、バレンバン - バンダルランプン間の旅客列車1日2往復しかなく、タンジュン・カラン駅 - バカウニ港間はバスで小1時間かかり、メラク-ジャカルタ間の旅客列車も少ないため、旅客輸送の潜在需要(バレンバン-ジャカルタ間の長距離バスが運行されている)が有るのに生かし切れていない。 モレック 南スマトラ・ベンクル州(ブンクル州)にはナパール・プティという住民約500名の小さな村からロンゲンを経由して人口約500名の金鉱山の村レボン・タンダイまで密林鉄道が走っている。鉄道は村人が管理しておりモレック(モーター式トロッコ特急)という個人所有のモーター式トロッコにお客を乗せて33kmの鉄路を約5時間かけてジャングルの中を走行している。
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スマトラ島
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「日本占領時期のインドネシア」の記事における「スマトラ島」の解説
アチェ州のウラマーは1942年2月にオランダ側と対立し、1942年11月には日本側と対立して反乱を起こし、蘭印軍と日本軍の両方と戦った。この反乱は全アチェ宗教学者協会(PUSA)により主導されて、日本人は18名が死亡し、日本軍はアチェ人を最大100人または120人超にわたり殺害した。この反乱は宗教学校を中心として発生した。同反乱中の11月10日と13日に、迫撃砲と機関銃で武装した日本軍はトンクゥ・アブドゥル・ジャリルの下で刀を振るうアチェ人に襲撃された。1945年5月、アチェ人は再び反乱を起こした。
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「スマトラ島」の例文・使い方・用例・文例
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