首都ジャカルタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:02 UTC 版)
「インドネシアの首都」の記事における「首都ジャカルタ」の解説
スカルノ大統領の時代に、ジャカルタは新しい共和国の首都として発展していった。1957年、中部カリマンタン州が創設され、その州都としてパランカラヤが整備された。しかしスカルノは、この街が将来的に新しい首都となる可能性を予見していた。街を拡張するための広大な土地と、インドネシアの国土の中心に位置するという地理的条件が、この街の利点だった。その一方で、スカルノはジャカルタも重視していた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、スカルノはジャカルタに大量のモニュメントや建物を立てた。スカルノ政権下では、モナス(国家記念碑)、イスティクラル、DPR/MPRビル(英語版)、ゲロラ・ブン・カルノ・スタジアムなどの数多くのモニュメントや巨大構造物のプロジェクトが計画され、いずれも後に完成した。またスカルノは、セラマット・ダタン記念碑(英語版)、ディルガンタラ記念碑(英語版)、西イリアン解放記念碑(英語版)など、多くの記念碑をジャカルタに設置した。スカルノは、ジャカルタが新国家の道しるべとなることを望んでいた。 1966年、ジャカルタは「ジャカルタ首都特別州」(DKIジャカルタ)となった。これにより、中央官庁や外国の大使館などの建設が促進された。1966年以降、ジャカルタは近代的なメトロポリスへと成長していった。 スカルノの後継のスハルト大統領は、新秩序体制(英語版)のもとで中央集権的な政策を推し進め、ジャカルタはさらなる政治・経済の中心としての地位を確立した。急速な開発と都市化に伴い、ジャカルタにはインドネシア全土から人が移住してきた。それにより、1970年代以降にジャカルタの人口は急増し、周辺地域に市街地が拡大して、ジャボデタベックと呼ばれる東南アジア最大の都市圏を形成するに至った。
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