1966年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 13:44 UTC 版)
その後、好都合にもMANからの乗り合いバス最終組み立て工場建設の申し出があり、ペンツベルクはこれを受け容れることに成功した。700人の元炭鉱労働者が1966年内にこの工場に再就職を果たした。1980年代の初め、MANは、ザルツギッターとペンツベルクの工場をコンポーネントの組み立てだけに特化し、ACP GmbHとして経営を独立させた。 1972年に医薬品コンツェルンのベーリンガー・マンハイムがペンツベルク第2発電所跡に進出し、重要な雇用主となった。この会社は1998年にスイスの医薬品コンツェルンであるロシュ傘下に移った。この会社は現在この街の最大の雇用主である。ヴァイルハイム=ショーンガウ郡には31万m2のロシュの工場敷地がある。この工場では1998年に2,464人、2008年に4,500人の従業員が働いている。1972年から2008年までの間に13億ユーロが投資された。 炭坑時代の特徴的な遺物が現在「ボタ山休暇保養地区」となっている。この途方もなく長く延びた丘陵は長年の間に集積された採掘屑でできており、1974年以後ペンツベルク風致計画建築家ヨーゼフ・プロプストの構想に基づいて緑化され、植物が植えられた。泥炭地の真ん中に積み上げられた不安定でしばしば崩落するこの山を当時の地元の人達は「ペンツベルガー・ドロミッテン」と呼んだ。こうした屑は1910年4月からはケーブルリフトで運び込まれた。このケーブルリフトが修理不能の状態になった時、1955年1月31日にアメリカ工兵隊が演習目的でこれを破壊した。その後は閉山決定まで屑はトラックで運ばれた。2006年10月にペンツベルク鉱夫教会はボタ山にケーブルリフトの記念碑を建立した。 1900年に建設された鉱山管理部の建物は1975年に解体された。鉱山管理部は最後まで鉱山を取り仕切っていた。その跡地は住宅地となった。その向かい側の現在 "EDEKA" のある場所はペンツベルクの最も古い坑口であったが1930年代にはすでに廃坑となっていた。 1980年代後半にはペンツベルク貨物駅の取り壊しが始まった。ここには最終的には快速列車の通過待ちをする待避所として使われていた。1990年代初めにはこの駅は跡形もなくなった。ここには産業地域が設けられた。今では「旧駅」と書かれた標識と昔のドイツ鉄道の駅を示すひっそりとした警告板だけがかつての駅を想起させる。 市の中心部、駅前通りとカール通りの角に1901年に建造され、歴史的原型を多く留めていた旅館「シュタルタッヒャー・ホーフ」があったのだが、2001年から2002年にかけて解体された。この建物は初め「Maffeischen Gutsverwaltung」のゲストハウスとして、後に市の中心部となる「ペンツベルガー・シュタークス」に建設された。後に1919年に設立されたカトリック婦人会の催事場となり、ナチスによる権力掌握以前にはKPDの党地方事務所として用いられた。「シュタルタッヒャー・ホーフ」を保存するという住民決議は守られなかった。ここは、現在、空き地になっている。この空き地を活用する建築のアイデア・コンテストが行われたのだが、市当局はどのコンセプトも、あるいはどのコンセプトの組み合わせも勝利することはなかった。この広場では週の市や、年に何度か中古車市が開催されている。 市議会は市内中心部の近代化を決議した。病院から市広場までの部分は完了した。第2期区画の工事は2008年春に始まったが、地下駐車場建設は住民決議により拒否されている。 2009年6月25日にカール通りにあった最後の歴史的建造物ヘック邸が取り壊された。
※この「1966年以降」の解説は、「ペンツベルク」の解説の一部です。
「1966年以降」を含む「ペンツベルク」の記事については、「ペンツベルク」の概要を参照ください。
1966年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 03:18 UTC 版)
1966年、3月20日のサンケイ大阪杯(現在の産経大阪杯。阪神)において、1番人気のキーストンらを一蹴し、芝1900m、1分56秒4のレコード勝ち。続く4月17日のスワンステークス(京都)では、スタートからハナを奪い、カブトシロー、ハクズイコウ、チトセオー、ダイコーターらを一蹴した。しかし、4月29日の春の天皇賞では競走除外となった。その後、9月18日の京阪杯(京都)では、61kgの斤量を背負いながらも、1番人気のワカクモらを破って重賞8勝目。この時点でシンザンと並ぶ、当時の中央競馬重賞勝利最多記録をマークしたが、同時にこれが最後の勝利となってしまった。その後、8戦するものの一度も3着以内に入れず、1967年6月4日の鳴尾記念(7着。阪神)が最後のレースとなった。 引退後は種牡馬入りし、1973年のクイーンカップを制したキクノツバメを出したが、他に活躍馬は出なかった。1979年死亡。代表産駒のキクノツバメも障害転向後レース中に故障し予後不良となっており、現存する子孫は極めて僅かである。
※この「1966年以降」の解説は、「バリモスニセイ」の解説の一部です。
「1966年以降」を含む「バリモスニセイ」の記事については、「バリモスニセイ」の概要を参照ください。
- 1966年以降のページへのリンク