最後のレース
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 00:31 UTC 版)
「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「最後のレース」の解説
1952年6月のル・マン24時間レースにも出場予定であったが、5月半ばに開催されたスポーツカーのベルングランプリにおいて、またしてもアクシデントに見舞われる。このレースでは300SLを駆ってスタートで首位に立ったものの、2周目からブレーキが不調を来たすようになった。短距離レースであることを鑑みて、チームメイトたちを先行させて、自分はブレーキはなるべく使わないようにして完走することに専念したが、カーブが連続する区間を時速160㎞で走行中に左後輪のブレーキが急に作動してしまい、コース外の木に衝突してしまう。この事故により、左足の大腿部とひざを骨折した。 このリハビリには時間がかかり、翌年には歩けるようにまで回復したが、この事故によってレースからは引退した。
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最後のレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 07:58 UTC 版)
「ジョー・シュレッサー」の記事における「最後のレース」の解説
1968年7月、シュレッサーはF1フランスグランプリにホンダ・RA302でスポット参戦することになった。彼はF1におけるレギュラードライバーの経験はなく、それまでも1966年と翌年のドイツグランプリをフォード・コスワースエンジンを載せたF2仕様のマトラで走ったのみだった。彼が起用されたのは主催者側が追加エントリーの条件としてフランス人ドライバーを乗せることを要求したためである。一方、このレースからホンダが投入することになったRA302は、ホンダの創始者本田宗一郎が固執した自然通気の空冷エンジンで、当時イギリスを本拠に活動していたホンダチームの現状をほとんど無視して日本から送りつけられてきたものだった。チーム監督だった中村良夫は、チャンピオンドライバーのジョン・サーティースの信頼と協力を得て年間優勝を賭けたこのシーズンに、日本での空冷マシン開発で人員と労力を奪われたことに忸怩たるものがあり、加えてシルバーストンでテストしたRA302はオーバーヒートがひどく、熟成が進んだRA301の調整を優先せざるをえなかった。 レース当日、重く雲の垂れ込めたフランス・ルーアンでシュレッサーのRA302はオーバーヒートを防ぐための多量のオイルを吹き出しての走行となり、また英語を解さないシュレッサーはチームとのコミュニケーションに通訳が必要で、セットアップもままならずプラクティスからスピンを繰り返した。16番グリッドからの出走(エンジンブローで満足に走らなかったマシンより速かった)となった決勝で天候は悪化し、シュレッサーのマシンは3ラップ目にメインストレート先の下りSベンドでコントロールを失い、まっすぐ土手にクラッシュ、仰向けでコース脇に落ちると満載した燃料とマグネシウムを多用したボディは激しく炎上し、彼は帰らぬ人となった。 1976年にF1参戦したフランスのコンストラクター、リジェチームのマシンの”JS”から始まる型式ナンバーは、チームオーナーのギ・リジェが親友であったシュレッサーを偲び、そのイニシャルを冠したものであった。 シュレッサーの死から20年目の1988年、ホンダはエンジンコンストラクターとしてマクラーレンによる16戦15勝を成し遂げるが、叶わなかったイタリアグランプリでの1勝を阻んだのは、皮肉にもシュレッサーの甥のジャン=ルイ・シュレッサーと、トップを走るアイルトン・セナの接触であった。このスポット参戦がF1決勝デビューだった彼もこの後F1で出走する事はなかった。
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