引退後(指導者時代)
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現役引退後も二軍コーチを務めるが、1974年に一軍守備コーチに昇格。同年オフに長嶋茂雄が監督に就任するもコーチを留任するが、翌1975年には球団創設以来、初の最下位に転落した責任に加えて長嶋との対立もあり、同年で退団した。須藤も、6月の時点でユニホームを脱ぐことを決めていたという。 巨人退団にあたって、須藤は日本ハムの監督大沢啓二やロッテの監督金田正一がコーチで声をかけてくれたが、「プロ野球はもういい」と思うくらいに打ちのめされていた。その後、須藤は埼玉県川口市の鉄建用の丸棒メーカー「向山工場」でサラリーマン生活を4年間経験しながら、勤務先の休日にはニッポン放送の解説者としても活動した。 1979年11月7日に大洋の二軍監督に就任し、高木豊・屋鋪要・市川和正らを育てる。1981年退任。 1982年には日本テレビ野球解説者に。以後は若手選手育成の手腕を買われ、セ・パ両リーグの監督・コーチとして活躍する。藤田元司監督の要請を受けて1982年12月2日に巨人へ復帰することが発表された。1986年ヘッドコーチに就任した国松彰の後任として二軍監督に就任。熱血漢と呼ばれ、「チームの勝利と育成の両立」に力を注ぎ、その熱い指導の下でイースタン・リーグ4連覇、ジュニア日本選手権3連覇も達成した。1989年に監督に復帰した藤田と吉村禎章の一軍昇格を巡る確執があり、同年退団。 1990年には大洋の監督に就任し、コーチ陣はヘッドコーチに江尻亮、投手コーチに小谷正勝、守備走塁コーチに米田慶三郎の大洋OBを迎えて首脳陣も一新した。野村弘樹が11勝を挙げて頭角を現し、この年から先発転向の高校の後輩、中山裕章が開幕投手を務め、かつてのエース遠藤一彦が抑えで復活し、ジム・パチョレックが高木豊とのチーム内での争いを制し、首位打者を獲得した。優勝した巨人に24ゲーム、64勝66敗ながら3位、チームを7年ぶりのAクラスに導いた。大洋ホエールズとしてのAクラスはこの年が最後。 1991年は現役メジャーリーガーのR.J.レイノルズを獲得して打線の強化するが、故障者続出もあり5位に転落。しかし、勝ち星は前年と同じ(64勝66敗)で阪神が圧倒的最下位だったこともあり、首位から5位までのゲーム差は10しかなかった。野村がローテを守ってチームトップの15勝を挙げ、岡本透も11勝、リリーフでは2年目の佐々木主浩が守護神になり、中継ぎでは盛田幸妃が台頭する明るい話題も続出した。しかし、オフに中山がスキャンダルを起こして逮捕され(解雇)、球界に衝撃が走る。翌1992年はラリー・シーツを獲得し、打線の強化を図ったが、序盤から低迷すると5月3日に休養した。須藤の後任にはヘッドコーチの江尻亮が就任し、同年オフに須藤は退団した。 1992年10月26日に巨人の監督に復帰したばかりの長嶋の要請で、須藤も巨人のヘッドコーチとして2度目の復帰を果たす。1994年には参謀役としてチームのリーグ優勝・日本一に貢献。1995年10月6日シーズン終了後に退団することが発表された。1996年には日本放送協会(NHK)野球解説者を務める。 1997年に西武のヘッドコーチに就任するが、同年7月10日の近鉄戦で監督の東尾修が審判に対して暴力行為を振るい、3試合の出場停止処分となり須藤も3試合監督代行を務めた。1999年退任。2000年からはCS系の野球解説者も任される。 2003年10月10日ヘッドコーチとして再び巨人に復帰。新監督の堀内恒夫の参謀役を期待されるが、2004年9月13日に退団した。
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引退後(解説者時代)
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2005年からラジオ日本などの野球解説者、および四国アイランドリーグ・高知ファイティングドッグスのアドバイサリースタッフにも就任した(現在は退任)。
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引退後(1948年 - 1986年)
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1948年、当時クリーブランド・インディアンスのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。。その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及び1954年のリーグ制覇に大きく貢献した。 その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した。ホワイトソックスのフロント在籍中の1956年、BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。9年目の挑戦での選出であった。1959年、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンス時代に続いてチームの躍進に貢献した。 1963年、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し、野球界から完全に身を引いた。 1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベックらと共に選手側の証人として法廷に立ち、カート・フラッドを擁護する立場を取った。 引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入って癌が進行した。1983年、現役時代の大半を過ごしたタイガースで在籍時の背番号『5』が、かつてのチームメイトだったチャーリー・ゲーリンジャーの『2』とともに永久欠番に指定された。 その3年後の1986年9月4日、カリフォルニア州ビバリーヒルズで逝去。75歳だった。グリーンバーグの墓は、カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に建てられている。 ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた。 "He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out." 「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)
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