現役時代(南海時代)
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投手で入団したが打撃が良かったことから、10月10日の対巨人戦で三番左翼手として初出場。2安打を放つが、自らの失策をきっかけに2失点し敗れた。同年11月10日の対大洋戦で初登板、野口二郎と投げ合い1失点で完投するが、1-0で敗戦投手となっている。この年はわずか2試合の登板で未勝利に終わった。 翌1943年5月26日の対大和戦(神戸市民)でノーヒットノーランを達成。さらに、次の登板となる5月30日の大和軍戦(甲子園)では1安打完封勝利を収めた。同年はチーム勝利数26勝の半数以上となる14勝(23敗)を挙げてエースに成長した。この頃、最晩年の沢村栄治と話す機会があった。当時の別所にとって沢村は憧れのスーパースターであり、声をかけるのも自重するほどだったという。それでも思い切って「どうしたら沢村さんのような速い球が投げられるようになりますか」と聞いたところ、沢村は少し考えてから「走りなさい」と一言だけ返答した。それ以来、別所は走り込みを大切にした。別所によれば、ランニングは下半身強化の効果もさることながら、肩や腕を振ることで地肩を強くする効果があるという。 同年12月に学徒動員令により召集を受ける。別所は飛行機に乗りたくて特攻隊を志願するが、身体が大きすぎるとの理由で叶わず、212工兵隊に配属され、満州の渤利に渡った。そこで幹部候補生試験を受験することになり、甲種合格を果たして、1944年2月に松戸の陸軍工兵学校へ入学するために内地へ戻る。終戦は後免(高知県南国市)で迎えた。 1945年11月に東西対抗戦が行われると早速参加し、11月23日の第1戦に登板する。2年目の1946年7月15日の対ゴールドスター戦(旧制高岡工専グラウンド)では7安打に抑え、26-0で完封勝利を挙げたが、この試合は完封試合としてはプロ野球史上最大得点差の試合であった。シーズンでは丸山二三雄(25勝)に次ぐ19勝(13敗)を挙げるとともに、防御率も2.47(リーグ3位)を記録して南海の初優勝に大きく貢献。僅差で競っていた巨人が敗れて優勝が決まった直後の11月5日の対中日戦で先発するが、5回途中でめまいを起こして降板。すぐに、病院に行くが病名は栄養失調であった。戦後の食糧事情の悪い中、大食漢の別所は監督の山本一人に掛け合い、勝利投手になると球団から米2合をもらえるようになっていたが、それでは足りなかった。なお、試合途中で病院へ行ったため、この年の優勝記念写真に別所は写っていない。 1947年には丸山に代わってエース格となる。8月10日の対中部日本戦では0-2で敗れるが、8回を完投し67球の最少投球数の記録を作る。シーズンではNPB記録であるシーズン47完投、別所が責任投手であった49試合のうち完投でなかったのは僅か2試合という凄まじい記録を残した。また、投球回もリーグ最多となる448回1/3を投げ、これは1946年の真田重蔵(464回2/3)に次ぐ戦後2位の記録となっている。30勝(19敗)防御率1.84(リーグ4位)、191奪三振(リーグ1位)の成績で、最多勝・ベストナインを獲得。この年から設立された沢村賞の初代受賞者にもなった。 1948年は中原宏・柚木進らの加入もあって登板機会は減るが、26勝10敗、防御率2.05(4位)、勝率.722で最高勝率を獲得し、2年連続でベストナインも受賞。優勝に大きく貢献し、別所自身も最高殊勲選手の獲得を期待したが、監督兼四番打者の山本一人が選ばれている。 同年1月に別所は懇意にしていた銀座の料亭『小松』の娘すずと結婚していたが、夫人が妊娠して一軒家が必要になったこと(当時、別所は実兄宅に借住まいしていた)、および他球団の主力選手に比べて別所の待遇が劣っていたことから、南海球団に対して一軒家と報酬アップを要求するが、交渉は決裂。一方で、別所の不満を聞きつけた巨人が別所に接触し、移籍を働きかけていた。これを受けて、南海は日本野球連盟に提訴したため、連盟事務局の裁定により、巨人は10万円の制裁金を、別所は翌1949年の開幕から2ヶ月間の出場停止を課せられるが、結果的に別所の巨人移籍は認められた(別所引き抜き事件)。移籍に当たって、巨人から契約金50万円と50万円相当の家一軒を受け取っている。
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