大鵬
大鵬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 06:51 UTC 版)
1940年(昭和15年)生まれの大鵬は、1956年(昭和31年)に才能を見出されて二所ノ関部屋に入門して初土俵を踏んだ。1960年(昭和35年)に初入幕し、その年の11月場所で優勝して大関に昇進。翌1961年(昭和36年)の9月場所に3回目の優勝をして、異例の早さで横綱に昇進した。好敵手の柏戸が同時に横綱に昇進し、以後両者が横綱に在位した期間は「柏鵬時代」と呼ばれる。その後1971年(昭和46年)の引退までに優勝32回という前人未踏の記録を樹立した。大鵬は猛烈な稽古によって打ち立てられた「手堅く負けない相撲」を基本として、度重なる怪我もやはり激しい稽古によって克服した。大鵬は美男子としても評判だった。 大鵬自身は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある。その理由は、大鵬自身がプロ野球でアンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体競技の野球と個人競技の大相撲を同一視されなくない気持ちがあったためであるという。大鵬は相撲を取るための天才と言われたら、自分は天才ではなく努力家であると反論した。「巨人のスーパースターである長嶋茂雄と同列に見られたり引き合いに出されたりしたが、自分はあのような天才でもなければスターでもない、南海の野村克也のような下から苦労した努力型で、ああいう選手に親しみを感じる」「自分くらい努力した人間はいない。稽古も人一倍やった。巨人・大鵬・卵焼きを言われた時は冗談じゃないと思った。いい選手をそろえた巨人と裸一貫稽古稽古で横綱になった自分が何で一緒なのか。天才という響きは生まれつき持って生まれた素質の良さだけで、そんなに努力しなくても勝てるというニュアンスが感じられて余計嫌だった、むしろ柏戸の方が怪我のためにあまり稽古しないのに、あんなに強かった点では『大鵬より柏戸の方が天才』」と大鵬は述べている。 大鵬は自伝に『巨人 大鵬 卵焼き - 私の履歴書』という題名を付けた。その中で「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語について、自分の相撲は安心して見られるから素人受けしたのが理由と述べている。 なお、大鵬は前述の通りアンチ巨人であったが、王貞治だけは例外であった。大鵬と王は (1)ともに1940年(昭和15年)5月の生まれ、(2)ともに典型的な努力型の選手、(3)ともに外国人ハーフ、と共通点が多かったためか二人は大変親しく、青年時代の大鵬と王は一緒に酒を飲む仲であった。
※この「大鵬」の解説は、「巨人・大鵬・卵焼き」の解説の一部です。
「大鵬」を含む「巨人・大鵬・卵焼き」の記事については、「巨人・大鵬・卵焼き」の概要を参照ください。
「大鵬」の例文・使い方・用例・文例
- 千代の富士は大鵬と並び称せられる横綱だ.
- 大鵬という,想像上の動物
- 大鵬関の本名は納(な)谷(や)幸(こう)喜(き)だった。
- その当時よく知られていた言葉は「巨人,大鵬,卵焼き」だった。
- 相撲の現役時代,大鵬関は872の白星を挙げた一方で,黒星はわずか182だった。
- 政府は大鵬関に国民栄誉賞を贈ることを計画している。
- 「体だけでなく心も強くならないといけない。15日間の場所中に1,2敗しても,闘争心を維持できるようになりたい。一生懸命やる。これが自分なりの大鵬さんへの敬意の表し方だ。」
固有名詞の分類
- >> 「大鵬」を含む用語の索引
- 大鵬のページへのリンク