大鵬の連勝を阻止
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1969年(昭和44年)3月場所、円熟期を迎えていた横綱・大鵬は、その前の1月場所終了時に2場所連続全勝、通算連勝も彼自身の最高、また戦後最高でもある44まで伸ばしていた。それがどこまで伸びるかが場所前の焦点であった。 戸田と大鵬の取組は2日目に組まれた。戸田は立合いからぶちかまし、ノド輪攻めの後、両ハズで一気に土俵際まで大鵬を押し込んだ。当時大鵬の弱点として「序盤・平幕・押し相撲」ということが言われ、その3つすべてを持っていた戸田には、番狂わせが期待されていた。しかし大鵬も、回り込みながら叩くと、戸田の右足が一瞬土俵の外に出て、蛇の目の砂を掃いた。しかし次の瞬間、戸田は大鵬を押し出し、自らも土俵の下に突っ込んでいった。この取組を裁いていた立行司の22代式守伊之助は大鵬に軍配を上げたが、すぐに西溜勝負審判を務めていた千賀ノ浦(元大関・栃光)から物言いがついた。正面審判長の春日野(元横綱・栃錦)(審判部長)は「戸田の足が出た」と言ったが、他の4人の勝負審判全員がそれを見落としていたため、協議の結果、行司差し違えで戸田の勝ちとなり、大鵬の連勝は45で終わってしまった。戸田は大金星を挙げた。この一番がこたえたか、大鵬は体調を崩し3日後の5日目に急性肺炎を理由に休場してしまった。 ところが新聞やテレビの写真や映像には、戸田の右足が土俵を割った瞬間が捉えられていた。このことで「明らかな誤審だ」とする批判が大きく上がり、中には春日野審判部長ばかりか武蔵川理事長(元前頭筆頭・出羽ノ花)にまで責任を問う声もあった。この場所はほかにも9日目の大関・琴櫻と前頭2枚目・海乃山との対戦でも疑惑の判定があったため、場所後相撲協会は物言いがついた時の判定に、ビデオの映像を参考にすることを決めた(もっとも、導入の準備はかねてから行われていたようで、機材の準備もできていたが、3月場所は大阪で開催されるために機材を運ばなかっただけで、この場所もやろうと思えば可能だったという。そのために、間髪を容れず導入を決定したという印象を与える結果にもなった)。のちにマスコミ等は「世紀の大誤審」として大きく取り上げる事となる。それでも、この問題について大鵬は1度も不満を口にせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語っていた。 次の5月場所、戸田は4日目に横綱・柏戸と対戦した。この時ももつれた相撲になったが、ビデオの映像が参考にされて戸田は2つ目の金星を挙げることができた(これが最後の金星でもあった)。その意味で、ビデオによる判定に深くかかわった力士であった。
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