若羽黒朋明
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若羽黒 朋明(わかはぐろ ともあき、1934年11月25日 - 1969年3月3日[3])は、神奈川県横浜市中区曙町出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は草深 朋明(くさぶか ともあき)。最高位は東大関。
注釈
- ^ それから8年後の1969年7月場所以降は、2場所連続負越で大関陥落、翌場所関脇の地位で10勝以上の成績で大関特例復帰に改正される。
- ^ 当時は最高位が大関であっても、現役時代の四股名で一代年寄に就任できる制度が存在しなかった。
- ^ 2013年9月場所7日目の中入後に力道山光浩が生前撮影していたカラーのフィルム映像が紹介され、北の富士勝昭が若羽黒のアロハシャツ姿での場所入りに言及している。北の富士は「当時は力士が着物を着用せず、スーツで場所入りすることも多かった」と補足的に証言していた。
- ^ 1999年12月31日にNHKで放送された『スポーツの20世紀 大相撲 名力士・名勝負100年』では、師匠・立浪も現役時代にはスーツで場所入りしていた様子が映し出されていた。実際に1947年11月場所5日目の場所入りにスーツを着用している姿が確認される。
- ^ 朝汐、若ノ花と優勝決定戦
- ^ 角番
- ^ 関脇陥落
- ^ 右足首関節捻挫により9日目から途中休場
- ^ 3月場所直前に廃業を表明
出典
- ^ a b c d e f g ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p23
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
- ^ 『若羽黒 朋明』 - コトバンク
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p55
- ^ 『大相撲中継』2017年8月12日号 p86(参考)
- ^ 常ノ花寛市と高永武敏の共著「近世大関物語」(恒文社)219頁には、賭け事を起因として暴力団との縁ができてしまったという趣旨の記述がある。
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p49
- ^ 続・八ヶ岳あかげら日誌
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p57-58
- ^ 浅坂さんの「ニックネーム力士列伝」〜その4〜 おすもうさん 2021年5月31日 (2023年2月27日閲覧)
- 1 若羽黒朋明とは
- 2 若羽黒朋明の概要
- 3 エピソード
- 4 主な戦績
- 5 脚注
固有名詞の分類
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