やまぐち‐ぐみ【山口組】
山口組
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山口組(やまぐちぐみ[2])は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の特定抗争指定暴力団[3]。分裂した神戸山口組や任侠山口組(現在の絆會)と区別して六代目山口組(ろくだいめやまぐちぐみ)(現在の組長が6代目であることから)とも呼ばれる[4][5]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h “令和5年における組織犯罪の情勢” (PDF). 警察庁組織犯罪対策部. 2024年3月30日閲覧。
- ^ 警察庁 (2020). POLICE OF JAPAN > CRIMINAL INVESTIGATION > 2. Fight against Organized Crimes(日本の警察>犯罪捜査>2. 組織犯罪との闘い) (PDF) (Report). pp. 28–30. 2021年4月8日閲覧。 (英語) ― p.29 “ヤマグチグミ”(Yamaguchi-gumi)
- ^ 『山口組(ヤマグチグミ)とは』 デジタル大辞泉 - コトバンク
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- ^ 『山口組分裂、有力団体が脱退 新組織結成か、抗争警戒』 ライブドアニュース 2015年8月27日 共同通信
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- ^ “Yahoo!みんなの政治 - 政治記事読みくらべ - ビデオニュース・ドットコム - 「日本を知るには裏社会を知る必要がある」”. web.archive.org (2007年2月24日). 2020年10月16日閲覧。
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- ^ 『平成11年 警察白書:第4章 暴力団総合対策の推進>1 50年の歩み』 1999年 警察庁
- ^ 『山口組が麻薬追放 偽装?はなばなしくデモ』 (15面) 昭和46年9月26日 中國新聞
- ^ 『山口組直系組長が激減 会費重荷で引退・除籍も』 2013年10月5日 神戸新聞
- ^ 『【山口組分裂】新組織は「神戸山口組」か、総本部は山健組など13団体を絶縁・破門に(1/2ページ)』 2015年8月27日 MSN産経ニュース
- ^ 『ついに新組織発足か 離脱13団体、トップに山健組組長』 2015年9月6日 MSN産経ニュース
- ^ 『警察庁 山口組分裂巡る対立抗争状態と認定』 2016年3月7日 NHK
- ^ “神戸山口組…15日に「指定暴力団」へ(兵庫県)”. 鹿児島読売テレビ. 2016年4月14日閲覧。
- ^ 『神戸山口組から新組織任侠団体山口組」結成…内紛の可能性も』 産経ニュース 2017年5月1日配信・閲覧
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- ^ “山口組と神戸山口組、より規制の厳しい「指定」…6府県10市が警戒区域”. 読売新聞 (2020年1月7日). 2020年1月8日閲覧。
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- ^ 『日本最大の暴力団「山口組」、創設100年を迎える』 2015年1月28日 中国網
- ^ 『「窮すれば通ず」山口組が結束固め』 2014年 FACTA
- ^ 『暴力団』 : “山口組の組織とカネ” (p.22) 溝口敦 2011年 新潮新書 ISBN 978-4-10-610434-3
- ^ 『山口組三代目 1野望篇』 (p.43) 飯干晃一 1982年 徳間文庫 ISBN 4-19-597344-9
- ^ 『暴力団』 “山口組の組織とカネ” (p.21-22) 溝口敦 2011年 新潮新書 ISBN 978-4-10-610434-3
- ^ 『暴力団』 “山口組の組織とカネ(p.23) 溝口敦 2011年 新潮新書 ISBN 978-4-10-610434-3
- ^ 『六代目山口組完全データBOOK』 “山口組の組織内部に新たな動き ブロック制改革の真相” (p.73) 2008年 メディアックス ISBN 978-4-86201-328-6
- ^ a b 『山口組幕府論:盃外交の意味』 猪野健治 2007年12月17日
- ^ 『山口組六代目 共政会 24年ぶり「兄弟盃」の真意』 ニコニコニュース 2020年2月20日 週刊実話
- ^ 『山口組、住吉会が対立解消で末端組員が落ちて行く』 溝口敦 2011年5月23日
- ^ 『山口組幹部に組員証』 2006年7月23日 スポーツ報知
- ^ 『山口組が幹部に「組員証」 九州の抗争を警戒?』 47NEWS 2006年7月22日 共同通信
山口組
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山口組からの接触に対し、当初は山口組入りに拘ってはいなかった竹中であったが、結局地道の眼に適い親分・田岡一雄に竹中を推挙。翌1961年12月13日に田岡から盃を受け直参となった。細田組・細田利光組長、小野組・小野新次組長、中村組・中村憲逸組長、前本組・前本重作組長らの山口組直参や、湊芳治らの田岡一雄の舎弟が見届け人となった。その後、竹中正久は神戸市三宮の「神戸観光ホテル」で行われた山口組「御事始(事始)」に出席した。 数百人の部隊と共に敵地・福岡に乗り込んで検挙された1962年の「博多事件」などで、山口組内でも有数の武闘派として、山健組組長・山本健一から絶大な信頼を受け、1971年、山本の若頭就任に伴い若頭補佐に抜擢された。 1978年2月、地元組織との抗争などで懲役2年の実刑判決が確定し、1979年9月まで神戸刑務所に服役した。 出所の際には、組関係者ら約1000人が出迎えに駆け付けた。
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山口組
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「山本健一 (ヤクザ)」の記事における「山口組」の解説
尾崎彰春と街を徘徊するうち、1951年頃、当時田岡三代目山口組で若頭を務めていた安原政雄(安原会会長)の賭場でいさかいを起こし、その度胸を買われて安原の若衆となって山口組の傘下に入った。1953年には鶴田浩二襲撃事件に参加し、逮捕される。翌1954年には梶原清晴らと共に地元の谷崎組を襲撃し、当時谷崎組の若頭であった野沢修に重傷を負わせた。この時は懲役3年の実刑判決を受けて加古川刑務所に服役、1957年に刑期を終えて出所後、山口組組長の田岡一雄から盃を受け直参に昇格した。 1961年に山健組を結成。1963年、田岡の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就く。その後一時若頭補佐から外れるが、1968年の新体制で再び若頭補佐に就任。さらに1971年には当時の若頭・梶原清晴(梶原組組長)が大隅諸島 の硫黄島で磯釣り中に溺死、同年9月に後任の若頭に就任。当初山本は最高幹部間で行われた入れ札(選挙)で山広組組長・山本 広に2対4で敗れていたが、田岡の指名により逆転就任することとなった。 就任直後、山本が責任者となって麻薬追放、国土浄化連盟を結成。1971年9月25日には、神戸市生田区の湊川神社で山口組系組員を動員した「麻薬撲滅決起集会」を開催した。 山口組内において、主に武闘派として夜桜銀次事件や広島抗争など数々の抗争で功績を挙げることにより、山健組の地位を不動のものとした。1978年には保釈中の身でありながら「大阪戦争」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため、再び収監されることとなってしまった。 このような功績などもあって、山口組四代目を継ぐと目されていたが、田岡三代目の死から間もない1982年2月に、持病の肝臓疾患のため死去。56歳没。わずか1年足らずの間に組長と若頭を相次いで失った山口組は、次第に内部対立を深め、一和会分裂から山一抗争へと突き進んでいくこととなった。 ウィキクォートに山本健一の発言録があります。
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