山口組からの絶縁と菅谷組の解散
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「菅谷政雄」の記事における「山口組からの絶縁と菅谷組の解散」の解説
事後この一件を周囲に吹聴したことと、次第に組織の中で強くなる力に軋轢も生じ始め、山本健一との関係は次第に疎遠になっていった。また、菅谷組舎弟の川内組組長・川内弘の本家直参昇格を巡り内部抗争を起こし、1977年4月13日、菅谷の命を受けた襲撃部隊が川内を射殺する事件が発生(三国事件)。この事件を重要視した山口組執行部は一同名義で菅谷を絶縁処分とした。 山口組に絶縁された後も菅谷組は解散せずに独自に存続するが、次第に離散する者が増えた。1978年7月11日には、山口組田岡一雄組長が銃撃される事件が発生(ベラミ事件)。実行犯の鳴海清は菅谷とは無関係であったが、銃撃の直後に菅谷組幹部宅に銃弾による報復攻撃が行われるなど、既に山口組からは「何かあれば」真っ先に疑うべき存在となっていた。 さらに同年、菅谷が収監されるに至って勢力はさらに縮退していった。『最後の博徒 波谷守之の半生』によると 1981年に出所した菅谷は波谷守之に相談しに行き、組の解散を進言される。この時点で波谷と菅谷組の実力者・浅野二郎は菅谷の体が癌に侵されていて、余命が長くないことを医師から伝えられていた(本人には伝えられていなかった)。2人にとって、余命をカタギとして穏やかに暮らして欲しいと願っての進言だった。 菅谷は2人の進言を受け止め、菅谷組の解散を決断し、1981年6月、田岡の元に「長いこと親不孝しました」と詫びを入れて解散を通知し、カタギとなった。その翌月の7月23日に田岡は心臓病のため死去し、菅谷も同年11月25日に67歳にて死去した。
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