山口組の本格的な介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 00:30 UTC 版)
この時点で打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、山口組と本多会という大組織の代理戦争の様相を呈するようになった。山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。 まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の山口英弘(山口(英)組組長)を絶縁とする一方、安原政雄・松本一美が美能ら暗殺の噂の真相究明に乗り出した。打越側にそんな動きが無かった(岩本は打越から縁を切られていた)事などから、現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部武、原田昭三らと打越信夫との兄弟縁を復縁させた(山村組勢力の取崩しを図った)。山村組内では、呉の顔役である海生逸一が画策した小原光男・美能幸三・山本健一の兄弟盃を不服とし、美能幸三を破門とした。美能は以前から何度も煮え湯を飲まされていた山村との対決姿勢を鮮明にした。 このように広島の勢力図が打越会・美能組・西友会の山口組派と反山口組の山村組派とに分かれる中、1963年4月17日に美能組幹部の亀井貢が山村組系組員に射殺され戦いの火蓋が切られた。
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