山口組の舎弟として
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昭和28年(1953年)には、大阪ミナミの宗右衛門町にマンモスキャバレー「富士」をオープン。しかし、地元の愚連隊・春日会や西宮市の諏訪組系柏木組からみかじめ料などを要求され、自ら諏訪組の舎弟となって事業を守ろうとしたものの断られる。その後、大阪市淀川区十三の中川組・中川猪三郎組長の紹介で、昭和32年(1957年)10月に持参金を持って、三代目山口組・田岡一雄組長の盃を受ける。田中は田岡の若衆となり富士会を結成、更に大野組組員だった桂木正夫(後の四代目山口組若頭補佐、五代目山口組舎弟頭補佐)を若衆とした。昭和35年(1960年)8月5日にはマンモスキャバレー「キング」を開店し、開店祝いでは田端義夫が出演すると共に田岡組長が来店。その後の打ち上げでのトラブルが明友会事件の発端となっている。 詳細は「明友会事件」を参照 だが、第一次頂上作戦で山口組の主だった傘下組織が摘発・解散の憂き目に遭い、田中も新たに起こした山口組一心会を昭和41年(1966年)8月23日に解散し、ヤクザから引退する。
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