山口組による襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 16:37 UTC 版)
1932年3月27日、寶川は大阪巡業に関して玉錦三右エ門がある贔屓筋の祝儀を拒否したのを咎め、口論に発展した。玉錦は偶然にも山口組系暴力団幹部・山口登の舎弟だったことから、この争いに組員の西田幸一・山田久一・田岡一雄が介入し、旅館に宿泊していた寶川を襲撃した。特に田岡は殺意を持って短刀を寶川の頭上に振り下ろしたが、寸前になって玉錦が制止して手元が狂い、寶川の右手小指と薬指の半分を切り落とした上に、寶川の額を割る結果となった。この時寶川は、血まみれのまま畳に手を付けて謝罪したことで命拾いしている。 寶川は喧嘩っ早い性格のみならず、笑い顔を見せないことでも有名で、田岡曰く「(寶川は)力士としては小柄で相撲内容も地味、おまけに器量の悪いことで有名だった。ブサイクな顔を自分でもよほど気にしていたらしく、写真を撮られることを拒否したから人気も無かった」「ガマも背を向けたといわれるほど醜男」と書いている。ただし、これらはいずれも山口組側の証言によるもので、その後も寶川が本場所で好成績を挙げていることや、後述のように引退後、郷里にて指圧療院を営んでいたことを考えると、少なくとも「右手の指を2本切り落とされた」という話の信憑性はかなり低い。また襲撃が原因で土俵を去った訳でもない。 廃業後は長生医学を学び、郷里・高知県で指圧療院を営んだ。1973年12月2日に死去、74歳没。
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