山口組との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:35 UTC 版)
「第4次沖縄抗争」も参照 1974年10月、分派行動を取っていた上原勇吉一派に旭琉會幹部が殺害される。1975年2月、旭琉會が報復に乗り出し、上原一派の組員3人を山中に連れ出し射殺した上で埋めた。同年10月、沖縄県警察は旭琉會会長である仲本善忠を殺人、死体遺棄の容疑で逃走中の大阪市内で逮捕した。 1976年―“沖縄旭琉会”への改称と同時に多和田真山を首領に据える二代目体制が発足。間もなく沖縄進出を巡り対立状態にあった山口組との抗争が激化し、白昼の那覇市内の路上で組員が山口組系暴力団員を拳銃で射殺、さらには組員が山口組系暴力団事務所に手榴弾を投擲したうえ拳銃を乱射するなどといった、暴力的な抗争事件を1978年度だけで22回にわたって引き起こした。その過程においては組員が警戒中の警察官に対してカービン銃を発砲し傷害を負わせるという事件もあった。 これは傘下組織の「上原組」が脱退、そして山口組への加入を行ったことから激化に至った抗争で、仲裁者の不在という沖縄特有の事情も手伝い、双方が疲弊し消耗し尽くすまでの“総力戦”に発展。この抗争の終結を模索した会長の多和田は、1981年、山口組との盃事を敢行し、同組直系組長(二次団体首領)ら2名を相手に対等の「兄弟分」関係を結ぶに至る。ところがこれが裏目に出てしまい、組織内の反対派から命を狙われる結果となった。翌1982年、傘下組織構成員の手により多和田は射殺された。 1983年5月に三代目体制としての「旭琉会」が発足。会長に就任したのは翁長良宏であった。この時点で1,000余名の構成員を擁する沖縄県内最大の暴力団であったが、やがて内部で主導権争いが発生。
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