山口組五代目跡目問題巡る動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 14:55 UTC 版)
「尾崎彰春」の記事における「山口組五代目跡目問題巡る動き」の解説
山一抗争が終結しつつあった1988年6月頃、竹中正久の死去後空席となっていた組長を決めるにあたって浮上した山口組五代目跡目問題の際には、五代目組長に四代目山口組若頭の渡辺芳則を推す勢力に属し、渡辺の五代目就任に向けて尽力。尾崎の尽力などもあり、渡辺は翌1989年に五代目組長に就任した。 この渡辺の五代目組長就任をめぐっては、山一抗争の終結問題などで山口組執行部との対立を深めており、渡辺の五代目組長就任にも否定的な反応を見せていた竹中武・竹中組組長の処遇が問題となった。この時、岸本才三らが竹中武の連れ戻しを目指して動いており、当時若頭だった渡辺芳則も当初は岸本の考えに同意していたが、宅見勝・山口組若頭補佐は連れ戻しに反対していた。尾崎は、反対派である宅見の依頼を受けて岸本を説得し、竹中武の連れ戻しを断念させた。岸本が断念したこともあり、当初は連れ戻し方針に同意していた渡辺も一転して宅見の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙とされた。 渡辺の五代目組長就任から約1ヶ月後の1989年5月18日、山口組総本家で組長代替わりに伴う盃直しが行われ、舎弟24人、若衆45人が参加した。加えてこの盃直しの際には、尾崎の実子で尾崎組組長を務める尾崎勝彦ら4人が新たに直参に昇格した。しかしその一方で、竹中武、二代目森川組・矢嶋長次組長、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。 同年5月27日には五代目山口組の新体制が発表された。新人事は若頭に就任した宅見勝の意向が強く反映されたものとなり、一方で、竹中武は若頭補佐から外された。 このような状況下で、竹中武はその後同調する者と共に同年6月5日付で山口組を脱退し、山竹抗争の勃発へとつながってゆくこととなる。
※この「山口組五代目跡目問題巡る動き」の解説は、「尾崎彰春」の解説の一部です。
「山口組五代目跡目問題巡る動き」を含む「尾崎彰春」の記事については、「尾崎彰春」の概要を参照ください。
- 山口組五代目跡目問題巡る動きのページへのリンク