山口組側の報復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:12 UTC 版)
組長と若頭を一挙に失った山口組は2月5日に直系組長会を開催し、舎弟頭中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐渡辺芳則(山健組組長)が若頭に就任した。山口組本部長岸本才三は「組方針を不言実行、信賞必罰」と宣言。直ぐに報復が始まり、2月19日に山口組弘道会菱心会組員が一和会後藤組若頭吉田清澄を拉致、竹中殺害を指揮した後藤の居場所を吐かせるため暴行を加えた。これに対し後藤は、配下の組員に後藤組の解散届を三重県警津警察署に届けさせ、速達で山口組本部に「詫び状」を送付。「自分が自首する替わりに、弘道会菱心会組員に拉致された吉田を解放して欲しい」旨を訴えた。同じ23日には高知市の高知競輪場で山口組豪友会組員が一和会中井組(中井啓一組長)組員3人を襲撃。2人を射殺し1人に重傷を負わせた。 3月5日には大阪市西成区の一和会溝橋組事務所で、溝橋組幹部大岩正博が突然の訪問者に背中を撃たれて重傷。翌6日には三重県四日市市の喫茶店で、一和会水谷一家總長宮本一利の元相談役清水幹一が2人組の男に拳銃で胸と腹を撃たれて死亡した。24日には大阪市の一和会徳山組徳心会組員が、事務所前で足を2発銃撃され全治3週間の怪我。阪神甲子園球場の駐車場でも、竹中組組員が堅気の露天商をしていた一和会特別相談役大川覚の長男を襲撃している。 4月4日には、山口組豪友会岸本組幹部谷脇修は一和会中井組事務所宛の宅配便を依頼し、宅配便配達員とともに中井組事務所に向かった。宅配員に呼び鈴を押させ中井組事務所のドアが開いたところへ、谷脇は一和会中井組組員門屋義之を射殺、他の中井組組員に重傷を負わせた。12日には山口組弘道会内薗田組幹部ら3人が、名古屋市のレストランで三重県四日市市の一和会水谷一家隅田組幹部中本昭七と隅田組組員島上豊を拉致。3人は警察に電話して「水谷一家が一時間以内に解散届を出すのならば、中本と島上を解放する」と伝えたが、水谷一家が解散を拒否したため翌13日に中本を射殺、島上に重傷を負わせた。14日には一和会定例会からの帰途、一和会副幹事長吉田好延が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、山口組後藤組幹部佐藤明義に38口径の拳銃で4発の銃撃を受けた。吉田は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。 5月11日、三重県四日市市内の一和会水谷一家宮本一利總長宅に拳銃七発が撃ち込まれる。 山口組の激しい報復に一和会は追い詰められる一方だったが、ただ手をこまねいてるばかりでなく反撃に出ている。3月17日午後8時すぎに一和会中井組弘田組舎弟竹中幸雄らは山口組豪友会岸本組事務所に侵入し、仮眠中だった豪友会組員吉門正光を拳銃で銃撃、吉門は5日後に死亡した。山口組からは山本広会長宅に後藤組員が大型ダンプカーで突っ込み警備の機動隊と銃撃戦が行われた
※この「山口組側の報復」の解説は、「山一抗争」の解説の一部です。
「山口組側の報復」を含む「山一抗争」の記事については、「山一抗争」の概要を参照ください。
- 山口組側の報復のページへのリンク