山口組四代目跡目問題へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:59 UTC 版)
昭和57年(1982年)2月4日、若頭の山本健一が、病死した。組長と若頭のツートップを失った山口組では、これを切っ掛けに四代目跡目問題が浮上し、中山は竹中正久を四代目組長に推すグループに属した。 詳細は「山口組四代目跡目問題」を参照 同年4月27日、山本健一の山口組組葬が田岡邸の隣で行われ、中山は葬儀執行副委員長を務めた。 6月5日、筆頭若頭補佐・山本広が組長代行に就任した。 その後、文子夫人は竹中正久に若頭就任を要請したが、竹中はこれを断り、代わりに中山を若頭に推薦した。しかし、他の直系組長が中山の若頭就任に反対したため、この人事は見送られている。最終的に、文子夫人の説得を受けた竹中が若頭就任を再度承諾した。 6月15日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれ、竹中の若頭就任が了承された。この幹部会には竹中のほか中山も出席しており、山本広、小田秀臣、中西一男、溝橋正夫の4幹部と共にこの人事を了承している。 その後は山本広組長代行・竹中若頭体制という組長不在状態での運営が続き、空席が続く組長の座を巡って山広派と竹中派の駆け引き・支持取り付けの動きが激しくなり、両派の対立は激化することとなった。結局、文子未亡人の強い意向もあり、竹中は昭和59年(1984年)6月5日に組長就任を受諾、同日午後3時から開かれた直系組長会で四代目組長就任の挨拶をした。 山本広を支持する直系組長は竹中の四代目就任に反対して山口組の山菱の代紋を組事務所から外し、山口組を脱退して「一和会」を結成した。
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