山口組直参昇格以降
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昭和47年(1972年)、三代目山口組・田岡一雄組長から盃をもらい、山口組直参に昇格する。 昭和52年(1977年)12月には、加茂田組・加茂田重政組長(後の一和会副会長兼理事長)、細田組・細田利明組長、正路組・正路正雄組長と共に若頭補佐に任命され、田岡三代目体制の幹部に名を連ねる。翌昭和53年(1978年)、愛媛県今治市に本拠を置く山口組の2次団体・二代目森川組(組長は矢嶋長次)の組員が、俠道会・森田幸吉会長のところで世話になっていた男(俠道会と盃の関係はなかった)から銃撃される事件が発生した際には、一時は自身が率いる豪友会など四国の山口組系組織の組員が今治市に集結し俠道会と睨み合う事態となったが、最終的には矢嶋と森田の間に入り、両者を和解させている。 また、山口組の幹部として重要な会合などの場にも列席している。昭和53年11月14日には、東京白山にあった山口組若頭・山本健一(山健組組長)のマンションを訪問し、尼崎市の真鍋組・真鍋展朗組長、角定一家・木村茂夫総長の2人と共に、細田利明と宅見組・宅見勝組長の2人が、田岡三代目からの「若頭代行を新設し、(肝臓疾患を抱える)山本健一を療養させたい」という伝言を伝えた場に同席している。山本健一はこの若頭代行新設案への返事を保留し、また同日大阪高等裁判所から保釈取り消し決定が出されたことにより、このマンションで大阪府警の捜査員に「住居制限違反」の容疑で拘束・収監されてしまった。このため、この時は若頭代行新設の話は見送られた。 昭和56年(1981年)5月、収監前に山口組を絶縁処分となっていた菅谷組・菅谷政雄組長が府中刑務所から出所した際には、菅谷はすぐに心臓病で神戸市の病院に入院したものの、竹中正久(竹中組組長。後の四代目山口組組長)、加茂田重政の両若頭補佐と共に菅谷組舎弟頭・浅野二郎や菅谷組系生島組・生島久治組長(サージの通称で知られる)と面会し、「菅谷を説得して引退させる」との意向を伝えられている。これがきっかけとなり同年6月12日、田岡組長は竹中・加茂田の両名と共に菅谷と会い、菅谷自身の口から堅気になった旨を聞いたことから詫びを受け入れ、加えて解散後の菅谷組を吸収することとなった。
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山口組直参昇格以降
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山口組直参昇格直後には、いわゆる夜桜銀次事件で山口組の先兵として九州地元勢力と武装対峙し、五分の手打ちに至る。こうして夜桜銀次事件でその勢力を見せ付けて以降、山口組の九州・博多の砦として伊豆組の勢力を急速に拡大させていった。 1982年に田岡一雄が病死すると、続く後継争いで竹中正久を支援し、1984年の四代目体制発足に貢献。その貢献と、それに先立って石井一郎が1973年に亡くなっていたため、四代目体制下では九州で山口組最古参として舎弟頭補佐の要職に就いた。 その後も山一抗争の渦中にあって久留米の道仁会とのいわゆる『山道抗争』に直に関与し、死傷者を伴う激しい抗争事件の当事者となった末、道仁会の古賀磯次会長が服役を終えて刑務所を出てきた1987年に、山口組側の代表として抗争終結に合意し手打ちの儀を行った。 かねてより九州ヤクザの大同団結を提唱し、その先駆けとして博多地区内地元組織の大同団結を呼び掛けていた。梅津会、羽衣会、太田会、強友会、太住会、平野組、中丸会、永尾一家という福岡市内の独立8団体に伊豆組を加えた9団体が『福博睦会』という親睦団体を結成したのが1985年のことであったが、これは自身の奔走の結果によるものであった。そして1990年にはこれから伊豆組を除いた8団体が代紋を統一したうえで『福博連合』という連合体を結成。のちの福博会であった。
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