山口組若頭への就任から暗殺まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:59 UTC 版)
「中山勝正」の記事における「山口組若頭への就任から暗殺まで」の解説
山口組は同年6月21日、田岡邸大広間で竹中新組長が23人の舎弟、46人の若中と固めの盃を執り行うなど、組織固めを進めた。さらに同年6月23日、竹中は新しい幹部人事を発表、この人事で中山は山口組のナンバー2である若頭に就任した。 昭和59年(1984年)8月5日、和歌山県串本町の賭場で山口組系松山組の下部団体にあたる岸根組の岸根敏春組長が、一和会系坂井組串本支部の潮崎進・若頭補佐を刺殺する事件が発生、この事件を機に山一抗争が勃発した。同年8月23日には、竹中組長が「義絶状」を友誼団体に送り、実質的に一和会への絶縁を表明するなど、両組の対立は深刻なものとなる。
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