山口組若頭補佐就任と菅谷組の隆盛
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1946年(32歳)から1959年(45歳)まで服役し、その仮出所後の同年11月、田岡一雄から若衆の盃を受けて山口組の若衆となった。菅谷は間もなく菅谷組を結成し、菅谷組は瞬く間に神戸で大きな勢力をふるうに至った。 1960年の明友会事件後、菅谷組も舎弟頭・浅野二郎(後の浅野組組長)が大阪に事務所を構え、菅谷も大阪にいる時間が長かったとされる。大阪では誠会(後の二代目小車誠会)を率いる川口義昌を舎弟分として在阪勢力を驚かせ、有名な博徒でもある波谷守之とも知り合った。後には業界の老舗である大阪の酒梅組四代目・中納幸男と五分の兄弟盃を交わしている(なお、三代目の松山とは田岡が五分兄弟盃)。 1961年から1964年頃にかけて菅谷組は神戸、大阪、和歌山、福井、石川、福島、愛媛、福岡、熊本に進出し、最盛期には構成員1200人を擁した。警察論文集によると「麻薬暴力団」とされる菅谷組は、福島、栃木、四国などで密売組織を作り数度にわたり覚醒剤事犯を起こしている。また経済力も強く、1974年に出資法違反で起訴された際には年間20億円を超える収入があったことが明らかになっている。 1963年に山口組の集団指導体制が発足すると菅谷は若頭補佐に就任。1971年に梶原組組長・梶原清晴の水難事故による急死を受けて、山健組組長・山本健一が若頭に就任する際には、互選で選出された山広組組長・山本広に対して、若頭断念の説得工作などを行った。
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