博徒
博徒(生井一家)
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20歳のころ、博徒になることを決意。間々田宿・間の川一家、田中屋(田中)慶蔵の子分になろうとしたが、慶蔵から生井弥兵衛に推薦され、生井一家を名乗る。弘化3年(1846年)8月、知人の女房を取り返そうとして、喧嘩になり、砂井(いさごい)村の高砂屋安兵衛の子分、塚崎村の丈介を斬り殺した。役人に追われて奥州に逃亡。二本松城下にきたとき、百目木村の貸元・嘉吉に認められて親分株を譲り受けた。10年ほど滞在した後、もめごとに巻き込まれたため、縄張りを子分に譲って百目木村を離れる。 仙台に身を潜めて数か月後、下総から訪ねて来た子分・多三郎(宝田多三郎)の求めに応じて帰郷。貞蔵は37歳になっていた。柳橋(現在の古河市柳橋)に移り、元の貸元に戻る。留守の間、貸元稼業は筆頭子分の彫常(常五郎)が守っていた。ほとぼりは冷めたものの、まだ役人に追われる身で、目立たないように稼業を続けた。 安政5年(1858年)6月、葛生(かずろう)村の後家から、「借金のために娘が無理やり売り飛ばされる」と相談を受け、借金相手の目明し長助のところに乗り込んで棒引きさせた。長助はこれを恨み、郡奉行の役人に貞蔵が戻っていると訴える。8月末、仁連村の祭礼に角力見物に出かけた帰り道、役人に取り囲まれて捕縛された。10月に江戸送りとなり、小伝馬町牢屋敷に入った。 万延元年(1860年)秋、貞蔵の処分が決まる。当初は「喧嘩発頭人」すなわち喧嘩の主犯として、遠島になるはずだったが、最終的には「喧嘩加担人」共犯者になり、石川島の人足寄場に送られた。慶応2年(1866年)、寄場が大火に見舞われ、「切り放し」(人足たちの一時釈放)となった際には、貞蔵ら数十人は防火活動のためにとどまった。寄場の再建が進んだ翌年3月、貞蔵は赦免される。 1か月後、同様に寄場から赦免された奥州川俣の金五郎が訪ねて来た。貞蔵は人足寄場にいたとき、兄の敵討ちのために脱走しようとした金五郎を思いとどまらせ、赦免後に敵討ちを手伝うと約束していた。貞蔵は約束を守り、ともに奥州に向かって、敵討ちを果たす。のちに金五郎は川俣で貸元となり、生井一家を名乗った。
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博徒
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江戸時代の遊女が行った心中立てと同じく、「以後隠すことなく元に戻らない決意の証」を示す指切りとして小指を切り取ることはやくざの間では処罰の方法として行われた。 詳細は「指詰め」を参照
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