山口組幹部への昇格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 17:21 UTC 版)
1970年(昭和45年)、福井組若頭の地位に上り詰めたことを機に大阪ミナミの千日前に本拠を移し、組織名も宅見組に改称した。そのころ同じく葺合出身の三代目山口組若頭・山本健一(山健組組長)と親しくなった。1975年(昭和50年)の大阪戦争では武闘派として活躍するなど貢献が認められ、山本の強い推薦により1977年には三代目山口組組長・田岡一雄から盃をもらい山口組直参に昇格した。 1982年(昭和57年)に山本が病死。これをきっかけに山口組四代目跡目問題が浮上し、宅見は竹中正久を山口組四代目に推すグループに属した。同年、宅見は若頭補佐に就任。竹中の組長就任に反対した山本広らが1984年(昭和59年)に一和会を結成した際には、山本に同調していた親分の福井を説得し、一和会に参加させることなく引退させている。 山一抗争を経て、1989年(平成元年)に渡辺芳則を首領に据えた五代目山口組の発足と共に山口組若頭に就任。渡辺による山口組「最高顧問」職の新設をはじめ、新人事には宅見の意向が強く反映されていた。
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