山口組直参への昇格
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山口組三代目・田岡一雄の腹心で四代目を継承すると見られていた山本健一(当時山口組若頭)が1982年(昭和57年)2月4日に急死する。それに伴い、二代目山健組組長に就任し、同年6月には三代目山口組の直参に昇格した。 1984年(昭和59年)6月、竹中正久を組長とする四代目山口組の発足に伴い若頭補佐に抜擢される。1985年(昭和60年)1月に竹中と共に若頭・中山勝正(豪友会会長)が一和会に暗殺される(山一抗争)と、翌2月、暫定執行部体制で若頭に就任。 1989年(平成元年)3月、一和会との抗争が終結。同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。同年4月27日、五代目山口組組長に就任した。組長在任中は若頭・宅見勝らの方針もあり警察との対立を避け、ブロック制導入などの合理化・統制化を勧め拡大路線を推進し続けた。 1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災が発生すると、救援に手間取る行政機関よりも早く、近隣住民への防災用品や緊急食料の配布を決定し、本部事務所にて指揮を取った。この救援活動は世界各国の報道機関より注目され、特にイタリアのマスメディアは「マフィアが救援活動」と報じた。またこの救援活動に際し、被災者からも感謝の声があった。
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