後継争い
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賢臣の管仲や隰朋(中国語版)、鮑叔らは相次いでこの世を去った。桓公は晩年、佞臣の公子開方・易牙・豎刁の「三貴」を重用した。斉の衰退が始まっていた。 桓公は管仲が推していた公子昭を太子とし、宋の襄公を後見人とした。桓公四十三年(前643年)、桓公は重病となった。五公子(公子無詭・公子昭・公子潘・公子元・公子商人)は後継を争った。十月、桓公は病死した。五公子が後継を争ったために斉は混乱を迎えた。桓公の死体は67日の間、納棺・埋葬される事もなく、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという。易牙・豎刁らは公子無詭を擁立した(斉侯無詭)。公子昭は宋に亡命した。前642年春、宋の襄公は曹・衛・邾の兵を率いて斉を攻め、公子昭を帰国させた。三月、宋の軍の圧力に屈して高氏(中国語版)や国氏(中国語版)は豎刁・斉侯無詭を殺し、太子昭を迎え入れた。しかし四公子の支持者が宋へ追い返した。同年五月、宋の襄公は再度出兵し四公子の軍を甗(現在の山東省済南市の付近)で打ち破り、太子昭は斉の国都の臨淄で即位した(孝公)。この動乱により、斉の国力は衰落し、桓公の覇業は潰えた。 孝公の死後、その子を公子開方が殺し、公子潘が即位した(昭公)。昭公の死後,その子姜舎(斉君舎)が即位するが僅か五ヶ月で、公子商人に殺され、公子商人が即位する(懿公)。四年後、懿公は懿公に恨みを持つ邴歜と庸職により殺された。懿公は驕慢となって人心を失ったため、斉人はその子を廃した。公子元を衛から迎え入れられ即位した(恵公)。後継争いは収束したが、斉の国力は衰落し、晋と楚が覇を争った。
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後継争い
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賢臣の管仲や隰朋(中国語版)、鮑叔らは相次いでこの世を去った。桓公は晩年、佞臣の公子開方・易牙・豎刁の「三貴」を重用した。斉の衰退が始まっていた。 桓公は管仲が推していた公子昭を太子とし、宋の襄公を後見人とした。桓公四十三年(前643年)、桓公は重病となった。五公子(公子無詭・公子昭・公子潘・公子元・公子商人)は後継を争った。十月、桓公は病死した。五公子が後継を争ったために斉は混乱を迎えた。桓公の死体は67日の間、納棺・埋葬される事もなく、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという。易牙・豎刁らは公子無詭を擁立した(斉侯無詭)。公子昭は宋に亡命した。前642年春、宋の襄公は曹・衛・邾の兵を率いて斉を攻め、公子昭を帰国させた。三月、宋の軍の圧力に屈して高氏(中国語版)や国氏(中国語版)は豎刁・斉侯無詭を殺し、太子昭を迎え入れた。しかし四公子の支持者が宋へ追い返した。同年五月、宋の襄公は再度出兵し四公子の軍を甗(現在の山東省済南市の付近)で打ち破り、太子昭は斉の国都の臨淄で即位した(孝公)。この動乱により、斉の国力は衰落し、桓公の覇業は潰えた。 孝公の死後、その子を公子開方が殺し、公子潘が即位した(昭公)。昭公の死後,その子姜舎(斉君舎)が即位するが僅か五ヶ月で、公子商人に殺され、公子商人が即位する(懿公)。四年後、懿公は懿公に恨みを持つ邴歜と庸職により殺された。懿公は驕慢となって人心を失ったため、斉人はその子を廃した。公子元を衛から迎え入れられ即位した(恵公)。後継争いは収束したが、斉の国力は衰落し、晋と楚が覇を争った。
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