鮫ヶ尾城跡
名称: | 鮫ヶ尾城跡 |
ふりがな: | さめがおじょうあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 新潟県 |
市区町村: | 妙高市 |
管理団体: | |
指定年月日: | 2008.07.28(平成20.07.28) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 鮫ヶ尾城跡は、新潟県の南部、西頸城山地の一角を占める低丘陵に位置する。天正7年(1579)の史料に「さめかを」「鮫尾」と見える戦国期の山城である。上杉謙信没後、謙信の養子景勝と景虎による後継争いが表面化し、ついに天正6~7年の御館の乱に発展する。その両者の最後の決戦場となったのが、堀江宗親が守っていた当城であり、景虎は当地で自刃したと伝えられている。 鮫ヶ尾城跡は、谷筋までの自然地形を含む範囲が約25万平方メートルに及び、その主な遺構は丘陵の主稜線上に並ぶ6箇所の大曲輪、6条の長大な堀切、100箇所を越える切岸などであり、遺構の残存状況は極めて良好である。これまでの発掘調査において、広範な範囲で被熱した16世紀後半を主体とする遺物がまとまって出土している。鮫ヶ尾城跡は、戦国大名上杉氏・武田氏の軍事的緊張の中で、強固な城郭造りが行われ、上杉氏の後継争いの主戦場ともなった城跡で、当時の姿から大きな改変を受けることなく良好に残っており、我が国戦国期の政治や築城技術を知る上で貴重である。 |
鮫ヶ尾城
(鮫ヶ尾城跡 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/20 07:52 UTC 版)
鮫ヶ尾城 (新潟県) |
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鮫ヶ尾城遠景
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城郭構造 | 連郭式山城 |
築城主 | 不明 |
築城年 | 16世紀後半 |
主な城主 | 堀江宗親 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 堀切、郭、虎口、水場 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯37度3分4秒 東経138度13分48秒 / 北緯37.05111度 東経138.23000度 |
地図 |
鮫ヶ尾城(さめがおじょう)は、現新潟県妙高市にかつて存在した上杉家配下の日本の城。城跡は2008年(平成20年)7月28日に国の史跡に指定された(鮫ヶ尾城跡)。
概要
築城年は分かっていないが、永正から天正年間に上杉氏(長尾氏)による北国街道の防御を兼ねた街道整備の一環として、春日山城直近の最前線要塞の意味合いで築城ないし大規模改修がなされたと伝わる。
2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(133番)に選定された。
御館の乱
謙信死後に勃発した御館の乱において、城主である堀江宗親は上杉景虎側につき、御館落城後に関東への唯一の逃げ道(景虎は北条氏康の子ないし北条氏縁者との説がある)となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れる。しかし宗親は安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放って当人は退去した。その後、総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は妻子共々自刃して果てた。
遺跡
現在も米蔵跡からは、乱の時に焼けた米「焼き米」が出土する(文化財指定されているため、持ち出し禁止)。
また、2008年度(平成20年度)の調査において、熱を帯びた陶磁器や雑穀が混じっていないおにぎりが出土している。一部の出土品は城跡下の管理センター、城跡近くに温泉施設「景虎の湯」に展示されている。
現地情報
- 複数の登城口がある。
- 斐太神社脇に「斐太歴史の里駐車場」(無料)があり、周辺の斐太遺跡などとあわせて整備されている。
- 妙高はねうまライン 北新井駅より歴史の里駐車場まで西へ約2.5 km
- バスの場合はくびき野バス 48 斐太線[1] 「斐太北小学校前」または「西乙吉入口」バス停が最寄りとなる。 ※平日のみ運行、本数僅か
脚注
- ^ “上越市内公共交通総合時刻表”. 上越市. 2020年5月18日閲覧。
参考文献
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
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- 『上越市史叢書9 上越の城』 (新潟県上越市、2004)
関連項目
外部リンク
- 鮫ヶ尾城跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- 斐太歴史の里:鮫ヶ尾城跡(妙高市)
- 上越妙高 山城マップ - 新潟県上越地域振興局 企画振興部
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