御館の乱
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御館の乱(おたてのらん)は、天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、ともに謙信の養子である上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎と、景虎に加担した山内上杉家元当主・上杉憲政らは敗死した。
注釈
- ^ 謙信の死因に関しては脳卒中と推測されることが多かった。『関東戦国史と御館の乱』163-165頁では、景勝が遺言で後継者に指名された旨を諸方に知らせていることから、遺言を残せる意識はあったと書状の受け取り側が解釈することを前提としており、「虫気」は「ちゅうき」でなく「むしけ」すなわち重い腹痛と読んで、急性膵炎や腹部大動脈瘤(破裂)などが死因の可能性があると推論している。
- ^ 『甲陽軍鑑』『甲乱記』に拠れば跡部勝資・長坂光堅は景勝方から賄賂を送られ、勝頼を説得し景勝支持に転換したとしている。文書上においては天正8年4月付跡部勝忠・長坂光堅文書において上杉方へ黄金未進を催促する文書が見られるが、跡部勝忠は勘定奉行であり、この頃には勝頼妹と景勝の婚姻が行われていることから、結納金としての正式な贈答であったと考えられている[12]。
- ^ 上杉家史料『宗心様御代の事』では天正7年7月20日、『甲陽軍鑑』では天正7年10月20日となっている。
- ^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城の戦いで後詰を送らず見殺しにしたことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している。
- ^ 会津移封時、石高を明記した秀吉からの領地朱印状類は発給されていないが、『上杉家記』の「会津移封所領目録」には120万1200石余と記されており、会津120万石は通説として『藩史大事典 第一巻 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)を始め多くの書籍に記載されている。なお『秋田家史料』(東北大学附属図書館蔵)の「全国石高及び大名知行高帳」には会津中納言として91万9千石。上杉将士書上には会津50万石国替。
出典
- ^ 『関東戦国史と御館の乱』81頁。
- ^ 『関東戦国史と御館の乱』83頁。
- ^ 米沢市上杉博物館収蔵上杉家文書、『新潟県史』資料編 - 886号
- ^ 福原圭一; 前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、31-41,52-53頁。
- ^ 今福匡 著「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥―「越後長尾殿之次第」の検討を通して―」、渡邊大門 編『戦国・織豊期の諸問題』歴史と文化の研究所、2017年、30-59頁。
- ^ 大関勇介「十六世紀前半越後国における内乱と領主―上条氏の血縁関係と享禄・天文の乱を中心に―」(PDF)『新潟大学卒業論文集』2015年。
- ^ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』第10号、2004年[1])。
- ^ 『関東戦国史と御館の乱』165-178頁。
- ^ 片桐昭彦「上杉景勝の権力確立と印判状」『新潟史学』45号、2000年。
- ^ 『関東戦国史と御館の乱』168-187頁。
- ^ 赤澤計眞「上杉氏の領国形成における直江兼続」『新潟史学』40号、1998年。
- ^ 丸島和洋 著「武田勝頼の外交政策」、柴辻俊六; 平山優 編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年。
- ^ 今福匡『神になった戦国大名 上杉謙信の神格化と秘密祭祀』(洋泉社、2013年)
御館の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:45 UTC 版)
天正2年(1574年)に隠居し、家督を嫡男の景広に譲り、自身は大胡城へ入った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱に際し、子の景広と共に上杉景虎を支持する側となり、越後国内で上杉景勝と戦う。本拠の北条城などを落とされ景広は戦死。越後での勢力を失った高広は天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下に入った。実父ともされる北条高定も、景勝に殺害されたと伝わる。
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御館の乱
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弘治3年(1557年)、安田景元の子として越後国安田城で生まれる。幼少の頃から小姓として上杉謙信に仕え、弥九郎の名を与えられる。 天正6年(1578年)、謙信の死後に起こった御館の乱では、兄・顕元と共に上杉景勝に味方する。しかし顕元は、戦後の論功行賞において景勝の直臣・上田衆が恩賞を独占したことにより、猛反発する新発田重家や堀江宗親(上杉景虎側だったが顕元が味方に引き入れた)らを仲裁するも、失敗し責任を感じて自害したため、能元が家督を相続する。天正8年(1580年)9月25日、本領を安堵され、さらに堀江宗親の旧領も与えられている。 天正10年(1582年)から数年に渡って起こった新発田重家の乱の鎮圧に参加。その中の放生橋の戦いにおいて殿軍を務めた際に片足を負傷。終生治ることのない後遺症が残ったため、以後「跛上総」と渾名された。
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御館の乱
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上杉謙信死後の跡目争いである御館の乱において、同一家中による激しい戦闘が行われた悲劇の城である。旧城主である柿崎家の当時の当主であった柿崎晴家は乱勃発当初から上杉景虎を支持(支持表明後、樋口与六らにより抹殺)。また、上杉景勝から柿崎家復興を約束を受けた旧臣は晴家の子である柿崎憲家を立てて景勝側に付いた。この事により旧臣が2派に分かれて戦うこととなった。(なお、この時の柿崎家は、先代柿崎景家の織田信長内通疑惑による死罪に関連し、家名は残せたものの改易された上に閑職にもつけないと言う、事実上の断絶状態であった。) 当時は同族での争いや家臣の分裂は珍しいものではなかったが、両派共にお家復興という大きな名目があった為、破れた側の景虎支持勢が全滅すると言った、同種の家中での戦いの中ではかつて無いほどの激しい同士討ちとなった。 勝った憲家は約束どおり柿崎家を復興させ、旧領に復帰した。 城山山頂(本丸跡)には双方の遺体を葬ったとされる塚と祀った祠が残されている。
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