甲越同盟の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:31 UTC 版)
武田・北条間の不信感が噴出するさなか、同年6月には景勝方から武田氏との和睦交渉が持ちかけられ、武田方では武田信豊・跡部勝資・春日虎綱(虎綱はこのさなかの14日に死去)、上杉方では斎藤朝信、新発田長敦が取次となり起請文の提出などが行われ、和睦交渉が始められた。武田氏にとっても、前出の北条氏に対する不信感や南には織田氏と同盟関係にあった徳川家の脅威もあったことから上杉軍と戦うことに抵抗感があった。勝頼方の条件は上杉領の割譲であったと考えられており、甲越同盟の締結により勝頼は上杉方の諸城を接収しつつ北上した。 武田を金で封じ込めた景勝方は、背後を気にする必要がなくなった。同盟締結の6月12日には長尾景明を討ち取って直峰城を奪取し、春日山城と景勝の本城であった坂戸城の連絡が可能となった。逆に景虎方は翌13日には景明に続いて上杉景信をも討ち取られ、日に日に形勢が不利となっていった。景勝方は勢いに乗り、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていった。形勢を見ていた勝頼は、春日山城近辺まで進撃しつつ景勝との和議交渉を本格化させ、29日に勝頼は越後府中に至って和議が成立した。 勝頼は7月中も越後に在陣し、景勝方と和睦しつつもあくまで中立姿勢のまま景虎方とも交渉して、景勝・景虎間の調停を試み、和平を成立させた。
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