勝頼期の活動から晩年とは? わかりやすく解説

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勝頼期の活動から晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:33 UTC 版)

春日虎綱」の記事における「勝頼期の活動から晩年」の解説

元亀4年1573年4月武田信玄死後の武田勝頼期に海津城代として上杉氏対す抑え任されている。天正3年1575年5月21日長篠の戦いには、上杉軍抑えとして参戦せずに海津城守備していたが、嫡男高坂昌澄戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期に一門武田信豊穴山信君譜代家臣跡部勝資長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣疎まれていたという。 長篠の戦い武田氏織田氏大敗した。この戦い武田家にとって有力家臣多く失い領国動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退決定づけた合戦とされる武田勝頼長篠敗戦後信濃逃れ6月2日甲府帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱敗報聞く信濃駒場において武田勝頼出迎え衣服武具などを替えさせ敗軍見苦しさ感じさせないように体面配慮し五箇条の献策行ったとする逸話がある。虎綱の献策事実であるかは検討要することが指摘されるが、主に相模国後北条氏との同盟強化することと、戦死した内藤昌豊山県昌景馬場信春の子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団再編すること、および長篠敗戦責任取らせるため、戦場離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊切腹申し立てたとしている。 武田勝頼期に尾張織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年1578年の上謙信死後発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次努め甲越同盟の締結携わっている。虎綱が甲越間の交渉携わっている天正6年6月8日付の北条高広北条景広上杉景勝書状最後に史料からは消え6月12日付の武田信豊書状では信豊単独交渉携わっており、同年10月からは虎綱の子高坂昌元登場することが確認される同年6月14日海津城において死去したとされる享年52。 虎綱の命日複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志人物第五では墓所明徳寺に伝わる5月7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性取れない高野山成慶院武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性取れることが指摘される。『武田御日坏帳』によれば同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養営まれている。法名弘治2年4月21日に「保椿禅定門」と定められている。

※この「勝頼期の活動から晩年」の解説は、「春日虎綱」の解説の一部です。
「勝頼期の活動から晩年」を含む「春日虎綱」の記事については、「春日虎綱」の概要を参照ください。

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