せっ‐ぷく【切腹】
読み方:せっぷく
[名](スル)
1 自分で腹を切って死ぬこと。平安時代以降、中世・近世を通じて武士の自決法として行われた。はらきり。割腹。
2 江戸時代、武士に科した死罪の一。検死役の前で、自ら腹を切ろうとするところを介錯人(かいしゃくにん)が首を斬り落としたもの。
せっぷく【切腹】
切腹
切腹
切腹
切腹
作者藤沢周平
収載図書龍を見た男
出版社新潮社
刊行年月1987.9
シリーズ名新潮文庫
収載図書極め付き時代小説選 1 約束
出版社日本経済新聞社
刊行年月1991.5
収載図書龍を見た男 改訂新版
出版社青樹社
刊行年月1991.9
収載図書藤沢周平全集 第5巻
出版社文芸春秋
刊行年月1993.2
切腹
切腹
切腹
切腹
切腹
切腹
切腹
切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 15:59 UTC 版)
切腹(せっぷく、Seppuku)は、刃物などで自らの腹部を切り裂いて死ぬ自殺の一方法。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)・伐腹(ばっぷく)・斬腹(ざんぷく)ともいう。日本では、主に武士などが行った独特の習俗。
注釈
- ^ 井上哲次郎『明治三十四年陸軍中央幼年学校講演記録』より「近頃新渡戸稲造と云ふ人が武士道といふ書物を英文で書き~」
- ^ 津田左右吉「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」
- ^ 徳川家康は下知なき行動(抜駆け)に対し、一族郎党全員の切腹という厳しい軍律を設けていた。ノモンハン事件では、優勢なソ連軍の猛攻を受けた指揮下の部隊を許可なく撤退させ、全滅から救った指揮官に自決が強要されている
- ^ 「或は痛手追ふて腹掻き切り川へ飛入る者もあり」平家物語巻四 橋合戦
- ^ 形としては切腹だが、晒し首にされている
- ^ 江戸城大広間で林鵞峯が「武家諸法度」を読み上げたのち老中酒井雅樂頭忠清によって宣言された。
- ^ 軍記物の記述として、『北条五代記』(『北条盛衰記』本巻二)の三浦義同があり、『土佐物語』巻三にも、「腹十文字にかき切りければ」と記述がある。
- ^ 本当は白の山形模様のついた火事装束は『仮名手本忠臣蔵』などの創作によるもので、史実では「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」であとは思い思いの服装だった。
出典
- ^ 1867 - Harakiri d'un noble japonaisL. Crépon著 1867年出版
- ^ CHAPTER VI.The 'HARA KIRU.'J. M. W. Silver著『日本の礼儀と習慣のスケッチ』、1867年出版
- ^ 氏家幹人『かたき討ち』中央公論新社〈中公新書〉、2007年、33-50頁。ISBN 9784121018830。
- ^ 山本博文『殉死の構造』弘文堂、1994年。
- ^ 『森銑三著作集』 第11巻、中央公論社、1971年。
- ^ 語彙と概念.
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- ^ 八切 止夫 (2003-03-01), 切腹論考, 八切意外史, 11, 作品社, pp. 18-19, ISBN 9784878935480
- ^ 清水克行『室町は今日もハードボイルド―中世日本のアナーキーな世界―』(新潮社、2021年6月)P165、166
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- ^ “死をも恐れぬ武士の精神は憧れか?尊敬か?お土産にもなった「ハラキリ写真」”. 2023年7月7日閲覧。
- ^ “日本刀専門家のイギリス人男性、実家の寝室で切腹”. 2023年7月7日閲覧。
- ^ A.B.ミットフォード 著、長岡祥三 訳『英国外交官の見た幕末維新』〈講談社学術文庫〉1998年、153-154頁。(原書は1915年刊)
- ^ 山本博文『武士と世間』中央公論新社、2007年。ISBN 978-4121017031。
- ^ 三田村鳶魚「元禄快挙別録』「赤穂義士遺聞」「横から見た赤穂義士」
- ^ 『赤木義臣対話』(安永7年写し)
- ^ 大濱徹也『「続・「忠臣蔵」という物語 その誕生と展開について』(2008年1月)
- ^ 「江赤見聞記」巻六
- ^ “内蔵助介錯の刀も「元禄赤穂事件」展”. 赤穂民報 (2019年12月13日). 2022年12月16日閲覧。
- ^ 永倉新八『激白新撰組 七たび斬られた男の実録』毎日ワンズ 2017年 137-138頁
- ^ 名和弓雄『間違いだらけの時代劇』河出書房新社、1989年、34-36頁。
- ^ 加藤徹『怪力乱神』中央公論新社、2007年、66-72頁。ISBN 978-4-12-003857-0。
- ^ “朴正煕 逝去30周年記念連載⑫ ― 企てられたクーデター”. 統一日報. (2009年6月6日) 2010年4月25日閲覧。
- ^ モーリス・パンゲ 著、竹内信夫 訳「第1章 カトーのハラキリ」『自死の日本史』〈講談社学術文庫〉2011年6月。ISBN 4062920549。
切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:45 UTC 版)
寛政8年(1796年)曽祖父の忌日11月16日に長生寺を訪れ、その墓前で切腹した。長生寺に運ばれ動機を尋ねられるも、「聊か憤激のことあり」とのみ応え、18日七ツ時絶命した。なお、切腹場所を庚申堂とするのは誤り。 明治31年(1898年)7月6日正四位を贈位された。
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切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた。 当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた。ところが、久松松平家では無体に扱った記録も残っており、特に大石良金については「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ、目付に見せる」などの記述がある(松平家の扱いを揶揄した狂歌が今に伝わる)。 また、間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている。毛利綱元は遂に赤穂義士に会う事は無く、切腹場所が何処か判らなくすべく家臣に指示している。 赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された。赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる)。
※この「切腹」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
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切腹
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「テニスの王子様の登場人物」の記事における「切腹」の解説
処刑法其ノ一。相手のラケットのトップを狙ってグリップエンドを腹に突き込ませるショット。相手はまるで切腹したかのような状態になる。
※この「切腹」の解説は、「テニスの王子様の登場人物」の解説の一部です。
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切腹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:21 UTC 版)
江戸時代の切腹は、実際に腹切りは行わず形骸化していた。自身では実際に腹は切らず、切腹の座について短刀に手をかけたところで介錯人が首を落とした。 光風はただ一人肌も脱がずいきなり、三宝の脇差を取って腹に突き刺し、横一文字に切り裂いた。驚いた介錯人の江良清吉が急ぎ首を落とした。検視役の斎藤治左衛門らは駆け寄ると見事と褒め称したと伝わる。
※この「切腹」の解説は、「間光風」の解説の一部です。
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切腹
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