ほうけん‐じだい【封建時代】
封建主義
封建時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:44 UTC 版)
家名は平安京の近衛大路に由来する。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、近衛流は藤原忠通の四男、九条流は六男を祖としており、五摂家の中で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。藤原忠通の四男(実質的な長男)の近衛基実を家祖とする。その子の基通が京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来である。禁裏の陽明門を東西に通じているのが近衛大路だったため「陽明」とも呼ばれた。 2代基通は鎌倉時代初期に後白河法皇の側近として親幕派の叔父九条兼実(九条家の祖)に対抗したことで知られる。3代近衛家実は建保・承久年間に牡丹紋を車紋として使用するようになり、この後に近衛牡丹が近衛家の家紋となった。 鎌倉時代中期に家実の四男兼平により鷹司家が立てられた。南北朝時代の一時期には近衛家は家平流と経平流の2流に分裂し、南朝側の近衛経忠(家平の子)と北朝側の近衛基嗣(経平の子)が対立した。 室町時代、近衛家は、二条家・一条家と異なり、関白になっても一年か二年程度しか在任できなかったが、応仁の乱の頃から二条家が経済的に困窮したのに対し、その地位を高め、戦国時代には、五摂家の筆頭的地位に上り、尚通など碩学政家や書家を輩出した。 近衛前久は1575年(天正3年)に織田信長と対立して薩摩国へ逃れて島津氏の庇護を受けたが、1578年(天正6年)に形勢がよくなったので帰京した。その息子の信尹も1591年(天正19年)に豊臣秀次に関白就任に反対したことで豊臣秀吉と対立して左大臣を辞したが、秀吉が朝鮮出兵を開始すると従軍を志願し、後陽成天皇にその許しを乞うたが、驚いた天皇は宸翰を秀吉に与えて信尹を思いとどまらせるよう指示し、秀吉は前田玄以に命じて信尹を制止した。その後周囲との調和を乱すとされて薩摩へ配流となった。後に許されて帰京して秀吉の死後には関白となった。信尹は継嗣を欠いたため、江戸時代初頭に妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた第4皇子、四宮を養嗣子に迎え近衛信尋とした。よって以後の近衛家のことを皇別摂家ともいう(皇室から直接別れた男系子孫にあたる立場は近代まで続いたが、現当主の近衛忠煇は細川護貞と近衛文麿の娘温子の間の次男なので清和天皇の男系子孫の可能性はあるものの、後陽成天皇の男系子孫ではない)。江戸時代後期の近衛家の家領は2862石だった。 五摂家の中でも近衛家のみが7、8歳での元服の際に天皇の直筆で名前を賜った。例えば近衛忠熙は光格天皇から、近衛忠房は仁孝天皇から名前を賜っている。 武家時代に朝廷は徹底的に抑圧され、近衛家も重要な役割を果たせる者がなかなか出せなくなっていたが、幕末になると朝廷の動向がにわかに脚光を浴びるようになり、外交にしろ内政にしろあらゆる問題は京都の意向なくしては何事も進まなくなった。こうした情勢の中、近衛忠熙が近衛家当主として久しぶりに大きな政治権力を行使する機会が巡ってきた。同時に政治的な浮沈も激しくなり安政の大獄で失脚し、井伊直弼が討たれると復権したが公武合体に奔走したため、幕末も後期の頃に幕府崩壊と共に再び失脚し、まもなく赦免されたがすでに60過ぎだった自身の政治生命は終わったことを自覚してそのまま隠居した。
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「封建時代」の例文・使い方・用例・文例
- 封建時代に
- 封建時代の遺物
- 君はまさに封建時代の遺物だよ
- 日本の封建時代には、最大の土地を所有した領主は「大名」と呼ばれた。
- 封建時代に.
- 君の考えは封建時代の遺物だ.
- 封建時代
- まだ封建時代の遺風が残っている
- これは封建時代の余風だ
- これは封建時代の余習だ
- 特に封建時代に由来するような世襲貴族の、特に封建時代に由来するような世襲貴族に属する、または、特に封建時代に由来するような世襲貴族を構成する
- 封建時代の日本の武士階級
- 上級領主から受けた土地を自分の領臣に持たせた封建時代の領主
- 国内関税という,封建時代の税
- 封建時代の大名たち
- 農民一揆という,封建時代における反領主運動
- 制度,風習,思想などが封建時代のようであるさま
- 封建時代において,官吏に与えられた給与
- 身分制度という,封建時代の制度
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