文禄・慶長の役
(朝鮮出兵 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 12:21 UTC 版)
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]。
- 1 文禄・慶長の役とは
- 2 文禄・慶長の役の概要
朝鮮出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 05:39 UTC 版)
天正20年(1592年)、豊臣秀吉の文禄の役で宗勝も朝鮮へ出陣した。しかし現地で病を得て、帰国後の同年9月23日に、立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋で死去。法名は宗勝寺殿天與勝運大居士。
※この「朝鮮出兵」の解説は、「乃美宗勝」の解説の一部です。
「朝鮮出兵」を含む「乃美宗勝」の記事については、「乃美宗勝」の概要を参照ください。
朝鮮出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:31 UTC 版)
文禄元年(1592年)から行なわれた文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山を進撃して、5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王の宣祖を追って開城を攻略した。 6月15日、大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。 6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。 6月下旬、黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。 8月初旬、漢城会議で明の援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。 文禄2年(1593年)正月、中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。 和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。 慶長元年(1596年)9月、日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。 慶長2年(1597年)7月、元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は、8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政ら右軍は忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めた。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した[要ページ番号]。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州、慶山、密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。 占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理・楊鎬、提督・麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。 慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。 このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。
※この「朝鮮出兵」の解説は、「黒田長政」の解説の一部です。
「朝鮮出兵」を含む「黒田長政」の記事については、「黒田長政」の概要を参照ください。
- 朝鮮出兵のページへのリンク