サルフの戦い
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サルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、簡体字: 萨尔浒之战)は、1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、簡体字: 萨尔浒)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにもかかわらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。
- ^ 稻葉君山; 但燾(譯). 《清朝全史(上下)》. p95, 中國社會科學出版社. 2008. ISBN 9787500472087.
- ^ 台灣三軍大學編. 《中國歷代戰爭史 第16冊 清(上)》. p80, 中信出版社. 2013. ISBN 9787508637112.
- ^ 女直は女真(ジュシェン、ジュルチン)の明代における呼称。女直諸部のうちヌルハチが属した建州女直諸部は女直の間では「マンジュ(満洲)」と呼ばれており、ヌルハチが女直の統一を進める過程で、その支配下に組み込まれた全ての女直人は満洲人と呼ばれるようになる。
- ^ 賜号のダルハン・ヒヤ(Darhan Hiya達爾漢侍衛)の名前でも知られ、「侍衛/総官」の意味である。
- 1 サルフの戦いとは
- 2 サルフの戦いの概要
- 3 シャンギャンハダの戦い
サルフの戦い
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後金との戦いが起きると、万暦46年(1618年)に遼東総兵官に再起用された。万暦47年(1619年)、サルフの戦いでは朝鮮からの援軍を含む東南路軍を指揮して、ヌルハチの本拠地ヘトゥアラ(赫図阿拉、興京)を包囲する一角として北上した。しかし、馬林の北路軍と杜松の西路軍が各個撃破されてしまい、全軍を指揮する楊鎬は残る李如柏の南路軍と劉綎の東南軍に退却を命じたが、既に敵地深く進攻していた東南軍には届かず、3月4日にヌルハチの次男ダイジャンの軍とアブダリで遭遇し、別働のホンタイジやダルハン・ヒヤによる三面包囲を受けて東南路軍は壊滅し、劉綎も戦死した。享年62。なお、少し遅れていた姜弘立の朝鮮軍は、攻撃で孤立した後に後金軍に降伏した。清が天下統一すると、劉綎は忠壮と諡された。
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サルフの戦い(1619年)
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「明清交替」の記事における「サルフの戦い(1619年)」の解説
国・勢力指導者状況・目的後金 ヌルハチ、ダイシャン、ホンタイジ等 明の攻撃を防衛。勝利 明 杜松、馬林、劉綎等 後金を攻撃。後金の首都ヘトゥアラに進軍。敗北 イェヘ 金台石 明に協力。敗北 朝鮮王朝 姜弘立 明に協力。敗北 ヌルハチ時代の重要な戦闘にサルフの戦いがある。撫順の陥落を知った明政府は衝撃を受け、ヌルハチに対して大軍を派遣した。装備と数で勝る明軍はヌルハチの居城ヘトゥアラへ進軍し、ヌルハチは野戦に打って出た。後金軍は4路に分かれていた明軍を1つずつ攻撃し、5日間の激戦で明軍を破った。イェヘ支族は、金台石(英語版)のもとで明軍に協力したが、金台石はサルフの戦いで敗れて1619年に死去した。日本海沿岸に住み毛皮をとって生活していた野人女真のワルカ(瓦爾喀)の人々も、1599年から1641年まで支配された。 ヌルハチはサルフに居城を築いたあと、遼東の平野に進出する。1621年の夏までに、遼東半島にある明の要塞都市である瀋陽と遼陽は、明内部の裏切りや離反が起きて後金の手に渡った。ヌルハチは瀋陽を後金の首都として宮殿を建設して、瀋陽はムクデン・ホトン(mukden hoton、盛京)と呼ばれた。 後金の占領政策 後金が新たに支配した地域は漢人の社会であり、ヌルハチは漢人の武臣や商人に遊撃と都司の職を与えて行政を任せた。税制では、銀で納税する明の一条鞭法に代わり、満洲人の習慣である現物納税を命じた。役人の監視のもとで市場を開き、満洲人が漢人を圧迫しないように公定価格を定めて、八旗の兵士には物資の購入用に銀を持たせて強奪を防ごうとした。工業面では陶工などの職人を奨励し、武器職人を集団化して製品を買い取った。満洲人は遼東への移住を始め、後金は漢人の土地を没収して満洲人に渡し、満洲人は八旗として与えられた土地(旗地)を運営した。漢人には辮髪の風習を義務づけて満洲人とともに居住させたため、満洲人と漢人の間でトラブルも起き、後金はときに漢人の弾圧も行った。 満洲人は明全土を征服するには少なすぎたが、モンゴル人を取り込んで蒙古八旗を創設した。さらに満洲人は捕えたり投降した漢兵を取り込むために漢軍八旗を創設して、満洲人による本来の八旗は満洲八旗と呼んだ。漢人(ニカン)旗は黒色の旗を用い、ヌルハチは八旗以外の漢人兵にも守られていた。1618年から1631年まで満洲人は漢人亡命者を受け入れ、その子孫は漢軍八旗となり、戦死者は追悼された。
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