後金の建国、明との戦いとは? わかりやすく解説

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後金の建国、明との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:48 UTC 版)

ヌルハチ」の記事における「後金の建国、明との戦い」の解説

万暦44年1616年)、ヌルハチ本拠地ヘトゥアラ(ᡥᡝᡨᡠᠠᠯᠠ, hetu ala赫図阿拉)でハン(ᡥᠠᠨ, han、汗)の地位に即き、国号を金(後金aisin)、元号天命(abkai fulingga)とした。前後してエルデニ(中国語版)(ᡝᡵᡩᡝᠨᡳ, erdeni, 額爾徳尼)とガガイ(中国語版)(ᡬᠠᡬᠠᡳ, g'ag'ai, 噶)に命じモンゴル文字改良した満州文字(無圏点文字)を定めたまた、八旗という軍事組織創始した。このことで、満州人勢力拡大する基盤固められた。 天命3年1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文掲げ、明を攻めることを決定した。この文書中には、明がイェヘ加担して満州攻撃すること、祖父ギオチャンガと父のタクシ明に誤殺されたことなどが書かれている同年ヌルハチは明の庇護受けていたイェ周辺諸城攻撃し始めた李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチ女真人馬市参加させて李永芳に通知し、隙を狙い撫順城攻めて李永芳を投降させた。ついでに清河城が陥落した同日東州馬根丹など500箇所陥落させた。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下47万と総大将楊鎬を置き、軍を杜松軍3、馬1万5千、李如柏2万5千、劉綎1万4つ分けて、4路からヌルハチ居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬1万5千とイェヘ1万、西は杜松保定総兵王宣2万5千、東は李如柏2万5千、南は劉綎2万8千で攻めた。こうして、撫順近くのサルフ(ᠰᠠᡵᡥᡡ, sarhū, 薩爾滸)において、10万号する後金軍と激突したサルフの戦い)。なお、「号して」とした場合、およそ実数半分といわれるともあれの上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中砂塵舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし後金大勝した明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月長年宿敵イェへを統合し悲願であった全女真族の統一成功した

※この「後金の建国、明との戦い」の解説は、「ヌルハチ」の解説の一部です。
「後金の建国、明との戦い」を含む「ヌルハチ」の記事については、「ヌルハチ」の概要を参照ください。

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