後金の建国、明との戦い
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万暦44年(1616年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(ᡥᡝᡨᡠᠠᠯᠠ, hetu ala、赫図阿拉)でハン(ᡥᠠᠨ, han、汗)の地位に即き、国号を金(後金、aisin)、元号を天命(abkai fulingga)とした。前後してエルデニ(中国語版)(ᡝᡵᡩᡝᠨᡳ, erdeni, 額爾徳尼)とガガイ(中国語版)(ᡬᠠᡬᠠᡳ, g'ag'ai, 噶蓋)に命じ、モンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。 天命3年(1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父のギオチャンガと父のタクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始めた。李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し、隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させた。ついでに清河城が陥落した。 同日に東州、馬根丹など500箇所を陥落させた。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、4路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬林軍1万5千とイェヘ軍1万、西は杜松、保定総兵王宣2万5千、東は李如柏軍2万5千、南は劉綎軍2万8千で攻めた。こうして、撫順近くのサルフ(ᠰᠠᡵᡥᡡ, sarhū, 薩爾滸)において、10万を号する後金軍と激突した(サルフの戦い)。なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる。ともあれ数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、後金が大勝した。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月で長年の宿敵のイェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した。
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