後金の建国とは? わかりやすく解説

後金の建国(1607年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)

明清交替」の記事における「後金の建国(1607年)」の解説

ヌルハチは諸大臣からゲンギエン・ハン(genggiyen han英明汗)として推戴された。そして国名を、数世紀前に北部中国支配した女真王朝である金の後身意識してアマガ・アイシン・グルン(anaga aisin gurun、後金国)とした。これはおそらく漢人越境者であるエルデニの助言得てのものであったヌルハチ軍事・行政組織創設し、これが八旗制度となる。1601年最小単位である佐領(ニル)が組織され、そこから大規模化して旗(グサ)になり、1615年までには八旗となったヌルハチによる統合女真自立する力を獲得した。しかし、1608年李成梁遼東総兵官を解任されると、女真人独占してきた貿易減少し明との関係悪化した。そして1618年ヌルハチ明に対す七大恨を天に掲げた七大恨とは明への大きな恨みを七カ条にしたもので、明がヌルハチ父祖殺したこと、明がイェヘ助けたことなどが含まれていた。これが事実上の明への宣戦布告とされるヌルハチ明に宣戦をした理由としては、(1)明の腐敗遼東防衛手薄な点を見抜いた(2)全女真の統一をほぼ達成した(3)国土凶作見舞われており食料獲得必要だった(4)明との貿易停止影響深刻だった、などの理由推測される

※この「後金の建国(1607年)」の解説は、「明清交替」の解説の一部です。
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