後金の建国(1607年)
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「明清交替」の記事における「後金の建国(1607年)」の解説
ヌルハチは諸大臣からゲンギエン・ハン(genggiyen han英明汗)として推戴された。そして国名を、数世紀前に北部中国を支配した女真の王朝である金の後身を意識してアマガ・アイシン・グルン(anaga aisin gurun、後金国)とした。これはおそらく漢人の越境者であるエルデニの助言を得てのものであった。ヌルハチは軍事・行政組織を創設し、これが八旗制度となる。1601年に最小単位である佐領(ニル)が組織され、そこから大規模化して旗(グサ)になり、1615年までには八旗となった。 ヌルハチによる統合で女真は自立する力を獲得した。しかし、1608年に李成梁が遼東総兵官を解任されると、女真人が独占してきた貿易が減少し、明との関係は悪化した。そして1618年、ヌルハチは明に対する七大恨を天に掲げた。七大恨とは明への大きな恨みを七カ条にしたもので、明がヌルハチの父祖を殺したこと、明がイェヘを助けたことなどが含まれていた。これが事実上の明への宣戦布告とされる。ヌルハチが明に宣戦をした理由としては、(1)明の腐敗と遼東防衛が手薄な点を見抜いた、(2)全女真の統一をほぼ達成した、(3)国土が凶作に見舞われており食料獲得が必要だった、(4)明との貿易停止の影響が深刻だった、などの理由が推測される。
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