後閑氏歴代城主の変遷とは? わかりやすく解説

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後閑氏歴代城主の変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:42 UTC 版)

後閑氏」の記事における「後閑氏歴代城主の変遷」の解説

後閑氏の名のもとになった後閑城は、後閑氏築城したものではなかった。嘉吉元年1441年)から文安4年1447年)にかけて、信濃御嶽城主の依田忠政が築いたといわれている。後閑城主依田氏は忠政の子政知を経て光慶のとき、箕輪城長野業政の女を室としてその片腕となり、天文7年1538年)に板鼻鷹巣城移ったという。その後後閑城に入ったのが北条政時であった。ただしこの間の詳しい城の歴史不明である。 新田景純は主水正ともいい、当初丹生城を領していたが、碓氷郡後閑領主である北条政時を滅ぼし後閑領するようになった永禄10年1567年)に後閑城に入城し後閑称するようになった伝える(『上州故城塁記』)。後閑称したのは次代の信純からともいう(『群馬県人名事典』)。 後閑移った景純は箕輪城長野業政属するようになり、永禄6年1563年)、景純の子新田岩松)信純のとき、武田信玄侵略受けて敗れその幕下に降る。 ところで、新田後閑)信純が武田氏走ったのは永禄2年1559年)のことといい、『安中志』には、永禄3年より新田信純が後閑城に居城するとみえている。永禄3年1560年)は、越後長尾景虎(のちの上謙信)が管領上杉憲政奉じて関東出兵した年で、そのとき景虎の陣に馳せ参じた関東諸将の幕紋を記録したのが『関東幕注文』である。そのなかには後閑氏属していた箕輪城長野氏上野諸将の幕紋が記されているが、新田後閑氏の幕紋はみえない。このことは、新田後閑氏がすでに武田氏陣営走っていたとされる一方依田政知が開いた長源寺寄進状から、新田氏後閑氏)が甘楽郡丹生城から居を後閑城に移したのは弘治元年1555年)、景純の代のことだとする説もある。荒廃していた長源寺後閑城主新田信純が弘治元年再興し、翌弘治2年1556年)に、寺領若干寄進したとされる。いずれにしろ新田氏岩松氏)が16世紀中ごろ後閑移り後閑氏改姓したとする。また、純に関して上野志』では伊勢守信継とし、『上州治乱記』では長門守宗繁となっており、後閑氏歴史に関して不明な部分が多い。

※この「後閑氏歴代城主の変遷」の解説は、「後閑氏」の解説の一部です。
「後閑氏歴代城主の変遷」を含む「後閑氏」の記事については、「後閑氏」の概要を参照ください。

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