寺社領
寺領
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「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「寺領」の解説
上野村(寒河江市白岩上野):南北朝期以前からの寺領。北寒河江荘。史料初出は延元2年(1337年)盛俊田在家宛行状(宝林坊文書)。 八鍬村(寒河江市八鍬):大江氏の寒河江荘入部により慈恩寺へ寄進。以後は工藤氏が代官として治める。川のはた(慈恩寺舞楽舞童帳)、鹿島、かにつくり、北原、中田面、樋口。 箕輪郷(寒河江市箕輪):明徳3年(1392年)慈恩寺門徒が神輿を振り置きし慈恩寺領となる。寺役を負担。 檜皮(寒河江市日和田)、醍醐(寒河江市醍醐)、慈恩寺中院(慈恩寺本堂付近)、慈恩寺西院(禅定院付近):寺内 たるしつい郷(所在不詳)、高瀬郷(寒河江市島)、なかとみ郷(所在不明):寒河江荘内であり寺領には属さないが買地安堵状(避文:さりぶみ)が残る。 熱塩郷(西川町大字睦合、寒河江市大字宮宿):文明4年(1472年)、白岩満教が慈恩寺梅本坊に対して1,400刈を与える。 石川村(寒河江市西根):慈恩寺領178石(他、二渡観音堂領14石余、鹿嶋明神社領19石、葉山権現社領10石余の朱印地があった)。
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寺領
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智福寺は慶長期の福岡藩で寺領を得ていた数少ない寺院の一つである。慶長7年(1602年)・慶長9年(1604年)においてその寺領は200石で、藩主黒田家の菩提寺である崇福寺の300石に次ぎ、古刹聖福寺(しょうふくじ)と並ぶ石高である。元和9年(1623年)の分限帳では108石(百八石)となっているが、これは智福寺の後身である吉祥院が元和7年に得た寺領180石(百八拾石)の誤りである可能性がある。。
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寺領
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1612年(慶長17年)5月3日 - 徳川家康が長源院に「徳川家康寺領寄進判物」を与えた。長源院に対し、沓谷村において20石分の租税(年貢)を収納する権利を認めること、また山林竹木の伐採・収納を免許し、門前(附属地)の諸役免除の特権も与えるから、仏事勤行(こんぎょう)に精進せよ、というものである。(読み下し文 - 駿河の国有度郡履谷(くつのや)の郷(ごう)内、弐拾石之事全(すべて)て寺納すべし。並びに境内山林竹木門前諸役免許せしめおわんぬ。てへれば此旨を守り、仏事勤行(ごんぎょう)怠慢あるべからざるものなり。よって件(くだん)の如し。慶長拾七年五月三日、御判、長源院。)。 1791年(寛政3年6月) - 長源院寺領絵図が作成された。長源院史に本堂の棟札の記載があり、「1781年(天明元年)」「新造上梁」とある。このことから本図は本堂が出来てからの絵図であると考えられる。その後火災も無く今日に至っている。(絵図の詳細 - ①客殿、10間半、7間、桁下高1丈4尺、此坪73坪半。②開山堂、2間半、3間半、桁下高1丈4尺、此坪8坪7分。③方丈、4間半、2間半、板葺、桁下1丈、此坪11坪。④衆寮、4間、3間半、板葺、桁下1丈1尺、此坪14坪。⑤廊下、2間。⑥庫裏、9間、6間、茅葺、桁下高1丈4尺、此坪54坪。⑦木部屋、4間、3間、瓦葺、桁下高8尺。⑧此坪、8坪。⑨僧堂、3間半、4間、桁下1丈2尺。⑩鐘楼、桁下高1丈4尺、此坪2坪。⑪雪隠、2間、3間、茅葺、桁下高8尺。⑫土蔵、2間、3間、瓦葺、桁下高1丈、此坪9坪。⑬蓮池。⑭塔司、3間4尺、4間4尺、茅葺、桁下高1丈1尺、此坪14坪6分。)。
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